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山形県川西町上小松…置賜公園

震災前取材

 

江戸時代の文政の頃、この上小松村に、肝煎の加藤孫右衛門という者がいた。

文政4年(1821)の8月、上杉家の代官の浅野政次が加藤家を訪れていたとき、雷が遠く飯豊山の方に聞こえると思っているうちに、それは次第に近く激しくなり、滝のような雨が振り出した。

この時期、この地方は雨が続いており、川はあっという間に増水し、夕刻にはこの地の堤も危ないとの知らせが入った。政次と孫右衛門はすぐさま駆けつけ、急を聞いてかけつけた里人たちと土俵を作り、堤の崩壊を防ごうと必死に働いた。

そうするうちに、堤の一角が崩れ、あっと言う間に政次と孫右衛門は堤防とともに濁流に押し流されてしまった。二人はかろうじて藤ヶ森の先に泳ぎ着いたものの、そこは急な岸壁で、手足をかけるところもない。助けを求めるが近くに人影もない。

このままでは死ぬばかりだと思っていたとき、一匹の狐が忽然と岸の上にあらわれた。狐は岸壁の上に伸びていた藤ずるを口にくわえ、二人の手の届くところに落とした。二人はこれにすがり、ようやくの思いで藤ヶ森の丘に這い登った。やれありがたやとあたりを見回したが、すでにその狐はどこかに去ってしまっていた。

崩壊した堤は、その後、政次や孫右衛門や多くの村人たちの尽力で文政8年(1815)8月復旧した。そして、村人らは代官の浅野政次と肝煎の加藤孫右衛門が助かったことや、無事堤が復旧できたのは、稲荷大明神の加護があったためと考え、岩沼の竹駒稲荷を分霊し、祠を建立したと伝える。