山形県酒田市二番町

震災前取材

8世紀はじめ出羽に国府がおかれ、酒田には官営の湊が置かれた。9世紀はじめに、北奥羽で蝦夷の勢力が強くなり、坂上田村麻呂がその征討のために出羽に来たり、出羽国府を整備し酒田城を築いた。この頃から、酒田は出羽の政治経済の中心となっていったようだ。

日枝神社は貞観(875)、このような中で、さらなる繁栄を願って、近江坂本から酒田市宮野浦に勧請された。その後分社され上と下とに別れ、特に下の日和山の日枝神社は市民に山王さんと親しまれ、商人の町酒田の象徴的な存在となってい った。松尾芭蕉、西郷隆盛、竹久夢二、など、多くの文化人や歴史的人物がこの地を訪れており、境内には多くの碑が建っている。

日枝神社の例大祭の「山王祭り」は、慶長14年(1609)から約400年もの間、毎年5月に一度も欠かすことなく続けられてきた。酒田は昭和51年(1976)大火に見舞われ、市街地の3分の1を焼失したが、昭和54年(1979)の酒田大火復興を機に、これまでの日枝神社の氏子の祭りであった「山王祭り」を酒田市民すべてのための祭りとして「酒田まつり」と改称され、現在に続いている。

日枝神社の社殿は天明4年(1784)、本間家三代、三郎四郎光丘が寄進したもので、随身門は明治27年(1894)の震災で倒壊したため、明治40年(1907)に本間光輝が再建したもの。随身門の「至誠通神」の額は東郷平八郎の揮亳によるもので、また日和山口の鳥居には西郷隆盛による「日枝大神社」の額が掲げられている。