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山形県高畠町竹森野手倉

震災前取材

 

この地の二基の宝塔は、右が伊達家第九代儀山政宗、左がその室で紀良子の墓である。

儀山政宗は、伊達家中興の祖と言われ、戦国後期の十七代伊達貞山政宗は、この儀山政宗の名にあやかったものと伝えられる。

伊達氏は、南北朝期は陸奥守として下向した北畠顕家に従い、南朝方の雄として目覚しい活躍をした。建武2年(1334)、顕家が足利尊氏を追い西上したときには、奥羽諸将とともに従軍した。しかし南朝は次第に衰退し、延元2年(1337)に顕家の二回目の西上にも従ったが敗れ、その後南朝は消滅した。

その後伊達氏は一時衰退したが、政宗の父の宗遠の時代頃から次第に勢力を盛り返し、永和3年(1377)に家督を相続し、康暦2年(1380)頃から、父伊達宗遠と置賜郡に侵攻し、至徳2年(1385)には長井氏を滅ぼし、 政宗は応永9年(1402)に高畑に入り、福島伊達郡とともに山形置賜地方を伊達氏の拠点とした。以降、奥州仕置まで200年余りにわたり、置賜は伊達氏の支配下に置かれた。

応永7年(1400)、鎌倉公方足利満兼が、その弟の足利満貞と足利満直を奥州に下向させ、伊達家に対し領土割譲を求めてきたが政宗はこれを拒み、大崎家などと同盟して鎌倉方と戦った。

当時、中央の室町幕府と鎌倉府は対立関係にあったが、政宗の室の紀良子は、三代将軍足利義満の叔母で、政宗は中央との繋がりが強く、この乱は、室町幕府と鎌倉府との代理戦争の一面もあった。

結局政宗はこの乱には敗れたが、その後も伊達氏は幕府を後ろ盾にして勢力を拡大していくことになる。 応永12年(1405)、この高畑で没した。