山形県酒田市中町一丁目

震災前取材

旧鐙屋(あぶみや)は現在の酒田市役所の真向かいに、石置杉皮葺屋根という当時の姿のままに建っている。現在の建物は、弘化2年(1845)の火災の直後に再建されたものを8年の歳月をかけて、可能な限り当時の部材を用いて修復したもの。現在でもその敷地は十分に広いが、それでも当時の4分の1以下だという。

鐙屋は町年寄役を務め、酒田三十六人衆の筆頭にも数えられた商家で、代々鐙屋惣左衛門を名乗った。鐙屋は姓を池田といい、慶長13年(1608)に領主である最上義光から鐙屋の称号を与えられて以後、鐙屋惣左衛門を名乗るようになったと云う。井原西鶴の『日本永代蔵』にも「諸国の客を引請け、北の国一番の米の買い入れ、惣左衛門といふ名を知らざるはなし」と豪商ぶりが記されており、表口三十間裏行六十五間、使用人数百人を抱えていたという。鐙屋惣左衛門はその才覚により大廻船問屋として全国に名をとどろかせるまでになっていた。

酒田は、かつての堺のように自治組織を作り、町政は三十六人衆の合議制で進められた。鐙屋の他にも加賀屋二木家、上林家などが三十六人衆のうち町年寄役として活躍している。

この酒田三十六人衆は、奥州藤原氏が源頼朝の平泉征伐により滅ぼされた折に、藤原秀衡の妻の泉の方を護り酒田に逃れた三十六人の武士達が酒田に根を下ろし、廻船問屋を営むようになったのが始まりと伝えられる。