山形県三川町横山字横山

震災前取材

横山城跡は三川町の南、現在の横山八幡宮の位置にあった。大浦城と藤島城の中間にあり、東西四十間、南北五十間の平城であったといわれている。赤川右岸の自然堤防上に位置し、西、南は赤川が自然の濠となり、北、東側は低湿地帯に面し、水堀で囲まれていたかもしれない。現在の横山八幡宮の社がある位置は、土塁だったと思われる。

築城時期、築城主は不明であるが、地理的には武藤氏の大浦城と、土佐林氏の藤島城の中間点にあり、この両者の抗争の中でその役割を果たしたと思われるが、比較的早い時期に武藤氏が支配したと思われる。永正9年(1512)頃は、押切備前守が城主だったと伝えられるが、その後、横山大膳、武藤氏広、武藤氏張が城主として知られている。

しかしその後武藤氏が衰退すると、この地は一時的に最上氏の勢力下に置かれたと思われ、天正16年(1588)、十五里ヶ原の戦いで、上杉氏を後ろ盾にした本庄勢に攻められ、焼き討ちにされたと伝えられる。その後の詳細は定かではないが、江戸時代初期には、庄内は最上義光が支配し、元和元年(1615)の廃城令により破却されたものと考えられる。