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山形県大江町左沢

震災前取材

 

元和8年(1622)、山形の最上氏が改易になると、左沢に鶴岡藩主酒井忠勝の弟直次が1万2千石で入り、左沢藩が成立した。

直次は、左沢楯山城を廃城とし、新たに漆川が流れ、北と東が深い谷を形成している小漆川に囲まれた台地に城を築き本拠地とした。

三方を断崖に囲まれた要害の地で、西の地続きの台地上を百間掘と呼ばれる三ノ丸外堀で掘り切って分断した。そして分断された台地先端部に堀で方形に囲まれた本丸とその脇に二の丸を配置し、さらにその周囲に三ノ丸を配した。本丸は東西60間、南北40間の、二の丸は東西40間、南北35間あった。

本丸の北側には道路があり、武家屋敷となっていた。台地の北東端に鬼門守護と領内鎮護の目的で神明神社が祀られた。直次は、城の近くに、南は米沢往来に、北は六十里越街道に繋がる通りをつくり主要道路とし、楯山城の麓で川岸に近い元屋敷に住んでいた商工業者を移住させて町をつくるなど、この城を中心に精力的に城下町を形成し、現在の左沢の町並みの基本的な形を作った。

しかし、直次は寛永8年(1631)、嗣子なく他界したため左沢藩は改易となり、左沢は庄内藩に吸収され、左沢小漆川城も慶安元年(1648)に取り壊された。現在、その大手門が巨海院に移築されている。