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山形県山辺町山辺

震災前取材

 

高楯城は、武田信玄の祖父の弟にあたる、武田信安により、宝徳元年(1449)に築城されたと伝えられる。信安は同じ源氏の誼でこの地に至り、最上満家によりこの地に封ぜられたと云う。寛正元年(1460)、足利幕府の命により最上氏が出羽の豪族を動員した葦名合戦に参陣し戦ったが、利あらず多くの家臣を失い、信安は世の無常を悟り仏門に入ったと伝える。

その後高楯遠江正福が、山形最上家の重臣として、1万2千石(異説あり)を所領し、本郭、二の郭、さらに集落の外周に三の郭の堀をめぐらした中世の城下町を完成した。城郭は小規模ながら平山城形式で、工夫された縄張りだったと云う。正福は、元和元年(1615)、大阪夏の陣に最上の武将として従軍し討ち死にした。

この城の数百m南に山辺城があり、このような近接した地になぜ二つの城が存在したのかは不明である。現在城跡には天満神社が建っており、周辺部は住宅地になっており、神社の平場以外は遺構らしいものは見られない。

なお、「世界の良心」と讃えられた常設国際司法裁判所所長だった安達峰一郎の祖先は、武田信安の家臣の家系で、峰一郎の生家はこの近くにあり、峰一郎は少年時代この地から小鳥海山の大杉を眺望し、将来への大志を抱いたと云う。