スポンサーリンク

山形県山辺町山辺

震災前取材

 

安達峰一郎は、明治2年(1869)6月、山辺町高楯で生まれた。少年時代から学者になって国際法を研究し、世界平和のために尽くしたいと願い、小鳥海山上の大杉に、自分も大杉のような大人物になることを誓ったという。

明治25年(1892)、東京帝国大学法科大学を卒業すると外務省に入り、明治38年(1905)、日本全権小村寿太郎の随員として、ポーツマス条約の草案作成にあたった。この時の学識、業績が高く評価され、明治40年(1907)法学博士の学位を受けた。

その後、メキシコ公使、ベルギー大使、国際連盟日本代表などを歴任し、日本の運命を双肩に担い国際社会で活躍した。その行動は、正義と公平に立脚し、弱小国とてあなどらず、強大国とて恐れず、平等と寛容で接したので、各国から尊敬と信頼を集めた。

大正14年(1925)国連ジュネーブ議定書に関する会議では、世界各国から反対された日本の立場を説明するため孤軍奮闘し、傍聴していた新渡戸稲造国連事務次長から「安達の舌は国宝だ」と、そのフランス語の才能と国際法の深い学識を賞賛された。

昭和4年(1929)、ハーグの対独賠償問題に関する会議で、英・仏間の意見の対立が感情問題にまで発展し暗礁に乗り上げた。このとき、困り果てた両国とドイツの代表は、峰一郎に仲介の労を依頼し、峰一郎は両代表を茶席に招いて巧まずして和解させた。

峰一郎のこのような公正公平な言動は各国から支持され、昭和5年(1930)、「世界の良心の府」と呼ばれた常設国際司法裁判所裁判官に、52ヶ国中49ヶ国からの圧倒的な支持を受けて選ばれた。翌年1月には所長に推され、3年間の任期中、常設国際裁判所が世界各国から信頼される後世妥当な判断を下し、世界平和の確立に貢献した。

昭和9年(1934)心臓病が悪化し、12月、オランダアムステルダムで65歳で永眠した。葬儀はオランダ国葬、常設国際司法裁判所葬として営まれた。