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山形県上山市鶴脛町一丁目

震災前取材

 

文化6年(1809)、上山藩主松平信行は、儒学を重んじ、廣福寺に学問所を設立させ、これを天輔館と呼んだ。講師には、高畠城主織田氏の家臣の武田孫兵衛を招聘し、孫兵衛は、伊藤仁齋、荻生徂徠等の学説を加味した上山藩独特の校風を樹立した。

その後、天保11年(1840)、藩主松平信宝(のぶたか)は、先代に続いて藩校の充実を図り、朱子学派の新鋭、米沢藩士神保蘭室を新たに招き、この地に独立学舎を新築、館名を明新館と改めた。明新館は、藩士の子弟に限らず、一般庶民の希望者の入学をも許可し、斬新な教育方法で国家的観念を基底とした卓抜な教育理念に従い、明治4年(1871)までこの地で教育が行われた。