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山形県上山市中山

震災前取材

 

永禄、元亀年間頃(1558-73)米沢城主伊達輝宗の家臣中山弥太郎が築城したという。中山城は中世、近世を通じて米沢城の支城であり、かつては置賜郡であった中山は、置賜、村山郡の境に位置する戦略的に重要な地点であった。

中山城は標高約344mの天守山に築かれ、山頂に主郭、南に二の郭、東に三の郭と三段の郭で構成されていた。馬出を旧中山小学校に置き、その東の前森山に砦を築き、さらに北方には上ノ山楯と物見山楯を配する、自然地形を利用した防備に囲まれた城であった。

室町、戦国時代には、内訌の絶えない最上領内に伊達勢が度々侵攻を図っている。永正11年(1514)には、伊達稙宗は山形の最上義定と戦い、天正2年(1574)には最上家の御家騒動に介入した伊達輝宗が最上義光と戦い、また伊達政宗と最上義光が中山で対陣したおりには、政宗の母で義光の妹である義姫が両軍の間に割って入り両軍の間に居座り戦いを断念させたという逸話も残る。

天正19年(1591)、奥州仕置により伊達政宗が岩出山城へ移封になると、置賜郡は会津に移封した蒲生氏郷に与えられ、米沢城には蒲生郷安、中山城には蒲生郷可が配された。しかし氏郷が文禄4年(1595)に急死した後、越後国春日山城より上杉景勝が120万石の大身で入封し、米沢城には腹心直江兼続が30万石をを以て封ぜられ、中山城には横田式部旨俊が配された。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの折には、上杉景勝は西軍に属し最上領に侵攻した。上杉勢は米沢城の名将直江兼続を総大将として狐越街道を進み、畑谷、山辺、長谷堂と侵攻した。中山城の横田旨俊は、本村親盛らとともに別働隊を率いて上山城の里見民部を攻めた。最上勢はこれに対し上山城を出て上杉勢の進路に兵を伏せ、本村親盛らを討ち取り上杉勢は退却した。上杉勢は追撃する最上の将の草刈志摩守を鉄砲射撃で討ち取りこれを撃退した。

関ヶ原の戦いの後に、西軍として行動した上杉氏は米沢藩30万石に減封となり、米沢城がその府城となった。中山には天守山の麓に御役屋が置かれ、米沢藩五支城の一に数えられて藩境の防備に当たった。