山形県上山市元城内

震災前取材

 

別名:月岡城

上山城は、米沢盆地、山形盆地の中央にある上山盆地のほぼ中央の独立丘に拠った平山城である。本丸を囲んで一段低く周囲に二の丸があり、外濠がこれを取巻いていた。山上の本丸も水濠で囲まれていた。石垣は少なく、おおむね土塁である。天守はなく、本丸の東側中央に比較的大きい三重櫓があり、二の丸からこれを通り本丸に登るようになっていた。この上り坂の両側には、狭間のある塀があった。本丸東南の隅に二重の隅櫓が一つあるのみで他に櫓はなかった。現在の五層の近世風天守閣は、旧城の建造物とは関係がなく、資料館として上山の歴史を伝えている。

上山城は最上氏の一族である上山氏(武衛氏)の居城で、初めは現在地より西にある虚空蔵山に築かれ、高楯城と呼ばれた。度々置賜の伊達氏の侵攻を受け、永正5年(1508)に高楯城は攻め落とされ、上山氏は滅亡した。代わって米沢盆地の伊達氏の勢力が進出し、これに属する小簗川貞範がこの地を治めた。

享祿元年(1528)、武衛義忠が高楯城の小簗川氏を滅ぼし、城を奪い取って居城とした。しかし、高峻にすぎたので、天文4年(1535)にこの天神森に築いたのが上山城である。この地に「月の池」という池があったことから月岡城と呼ばれるようになった。この地は、羽州街道と米沢街道の分岐点に近く、山形の最上氏と米沢の伊達氏が、しばしば衝突した地である。

天正年間(1573~1592)の城主は最上義光の叔母婿の武永満兼であった。しかし最上、伊達両勢力の間にあって、その去就が定まらなかったため、最上義光の出羽統一の過程で義光の謀略により、天正8年(1580)、家臣の里見越後、民部父子に殺され滅亡した。里見は義光の家臣となり、上山城主として慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの折の出羽合戦で、物見山の戦いで上杉軍を撃退する活躍を見せた。しかし最上義光の嫡男義康を謀殺する事件に関わり上山城から出奔、連れ戻され庄内丸岡城で討たれた。

その後、坂紀伊守光秀や最上義光の五男上山義直が城主となったが、慶長8年(1622)、最上家はお家騒動で改易され、代わって能見松平氏が入封して城を修築した。

その後、土岐氏、金森氏、藤井松平各氏の居城となったが、このうち最も城郭、城下が整備されたのが土岐氏の時代だった。内外に二重の堀を巡らし、本丸には居館、三階櫓、角櫓が聳え、その下段に二の丸、北の丸を備え、東には枡形を伴った大手門を構え、その壮麗な姿は奥羽三名城の一つにうたわれた。このため土岐氏は名君として評判が高かったが、元禄5年(1692)、幕府の命令で国替えされた上に、上山城は小藩にふさわしからずとして破却された。

金森頼時が飛騨・高山から3万8千石で入封し、二の丸に居館が設けられ、元禄10年(1697)、藤井松平氏が3万石で入封し以降世襲して明治に至った。

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