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山形県山形市関沢

震災前取材

 

奥羽山脈の鞍部を越える笹谷峠は標高906mと、他の奥羽山脈越えの峠に比べて高いが、「みちのく」の国と「いでは」の国を結ぶ最短距離のため、延喜式において延長5年(927)に官道に指定された。

峠道は都の官人の通行に始まり、鎌倉御家人の上下、戦国期には軍道として利用され、一時は出羽13大名の参勤交代にも使われた。しかし、明暦2年(1656)、羽州街道の小坂通が整備されるにしたがい、江戸幕府は羽州街道を参勤交替の道に定めたため一時衰微した。しかし、山形~仙台間の最短ルートであるため、日本海側、太平洋側の生活物資の運送路としてその後も物流におおいに利用された。

明治15年(1882)、関山峠が改修されると物流がそちらに移り利用者は激減した。笹谷峠も改修を行い馬車が通れるようになるが、明治34年(1901)の奥羽本線開通で完全に寂れた。昭和45年(1970)国道に昇格し、昭和56年(1981)には笹谷トンネルが開通したことにより、現在は山形~仙台間の最短ルートとして復活し大いに利用されている。

笹谷トンネルから先の峠までの道は、現在冬の期間を除き通行ができ、休みになると美しい風景目当てに宮城・山形両県から観光客が訪れている。

「ささや」の地名の由来に、以下のような伝説が伝えられている。

陸奥の郡司中納言藤原豊充の娘に、真珠のように奇麗で詩や琴にすぐれた阿古耶という姫がいた。ある時、青い衣を身につけ笛を持った名取太郎という山形千歳山の松の精霊の若い男が尋ねてきて、姫と管絃の友となり、終には夫婦の契りを結ぶまでになった。

ある夜男は力なく愁然として現れ言うには、「仙台の名取川に架かる橋が流され、その名取川の橋材として明日伐られるさだめ」という。翌日、松は伐られたが、運ぼうとしてもびくとも動かない。しかし阿古耶姫が優しく手をかけるとするすると動きだした。姫は切られた松に手を触れながら笹谷峠まで送り、ここで最後の別れをささやきあった。そのためこの峠は「ささやき峠」と呼ばれるようになり、いつの頃からか「ささや峠」になったという。

 

・八丁平

笹谷峠の頂部は、なだらかな広い高原になっており、そのため八丁平と呼ばれている。ツツジの名所として訪れる人も多く、北には山形神室、仙台神室が、南には北雁戸山の山容が見渡せる。平坦な峠の旧道添には、有耶無耶の関跡や尼寺跡があり、また遭難者の供養のためという六地蔵や、敵討ちの物語りを秘めた生地蔵や、二百万遍供養碑、三界万霊塔等多くの石造物が建立されている。

 

・尼寺跡

最上義光に謀殺された、谷地城主白鳥十郎の姫が住んだという避難所の尼寺助け庵があったという。

 

・六地蔵

昔、ある冬の朝早く山形の殿様の命を受けた六人の侍が山形がわの関沢を出発して仙台の殿様の所へ使いに行った。笹谷峠越えは一日がかりのうえ、冬の峠越えは深雪のつつら折りの難所が続き、命がけの仕事だった。往く時は天気に恵まれ峠を無事に越して使いを果たす事ができた。しかしその帰り、返書を持ち、宮城の川崎を朝早く出発し、峠の近くの八丁平までさしかかった頃、急に吹雪になり、降り積もる雪と吹きすさぶ風のため先に進む事ができなくなってしまった。吹雪は三日三晩吹き荒れた。

四日目になると、それまでの吹雪がうそのように晴れわたり、宿場の人達は侍達を探しに峠へ向った。悲しきかな、案の定、六人の侍達は八丁平に点々と、ある者は立ったまま、ある者は返書を胸に抱きしめ、ある者はわらじの紐を締め直しながら凍死していた。

宿場の人達はその使命感あふれる姿に感銘し、六体の地蔵尊を祀り霊をなぐさめた。その後、遭難が絶えなかった笹谷峠では、不思議と遭難する人が無くなったという。