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山形県村山市楯岡湯沢…祥雲寺

震災前取材

 

最上満国の墓石と考えられている五輪塔が、満国により楯岡城の鬼門の位置に建てられた菩提寺の祥雲寺にある。

最上氏は清和源氏足利氏の一族である斯波氏の分かれである。斯波兼頼は北朝方として出羽国内の南北朝期を乗り切り、山形に定着し斯波から最上と改め勢力を拡大していった。

最上氏の所領拡大は、庶子を各地に分封することで行われた。二代直家、三代満直の代に盛んに行われ、満直は、長男満家を山形に置き最上家の当主とし、次男満基を中野に、三男満頼を大窪に置いた。

四男満国は、応永13年(1406)、楯岡に配され、以後満国は楯岡氏を名乗った。初代楯岡城主として楯岡支配の基礎を築き、嘉吉2年(1442)没した。その後楯岡氏は七代にわたり楯岡城を居城としこの地を治めた。

最上氏は、最上川以東の村山地方一帯を一族で押さえ、その勢力は新庄盆地にまで拡大していった。しかし戦国期に入り、天童氏を中心とし最上八楯を形成するなど最上一族は分裂し、楯岡氏も一時最上八楯の一翼を担ったが、その後は常に最上氏に従い、楯岡満茂は最上義光の片腕として活躍し各地で武勲を挙げた。慶長出羽合戦後は本荘城に4万5千石を与えられ本荘氏を名乗った。

元和8年(1622)最上氏は改易され、同時に本荘氏も所領を没収され、前橋藩主酒井雅楽頭に預けられた。その後赦されて子孫は本多氏に仕えたと伝えられている。