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山形県天童市蔵増甲…西称寺

震災前取材

 

蔵増(くらぞう)城は、寒河江の大江氏や谷地の白鳥氏などと勢力を争っていた最上氏が、倉津安房守に築かせたと考えられている。しかし、最上家の初代の斯波兼頼(かねより)の孫で、天童城主頼直の弟の高擶城主義直が、蔵増に移って築城したという説などもあり定かではない。

天正8年(1580)、最上義光は、対立する天童城主天童頼澄と同盟関係にあった細川直元の最上小国郷に侵攻する。倉津安房守はこの義光の「小国郷攻め」、そして天正12年(1584)の「天童城攻め」に参陣して軍功をあげた。この功により倉津安房守は最上小国に領地を与えられ、小国日向守と名を改め移った。

蔵増はその後、一族の蔵増大膳亮(だいぜんのすけ)が統治し、元和8年(1622)、山形最上藩の改易とともに廃城となった。

蔵増城は、最上川右岸の微高地に位置する平城で、100m四方の主郭を250m四方の外郭で囲んだ輪郭式の方形館と想定されている。主郭、外郭ともに幅5~10mの水堀で囲まれていたと考えられる。主郭は西称寺周辺で、遺構は宅地化により殆ど残っていないが、北、西側の外堀がかすかに名残を残す。

倉津安房守の姫君の萩姫が、化粧に使ったと伝えられる井戸が残っている。