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山形県寒河江市蔵増…西常得寺

震災前取材

 

西常得寺の化杉の下に、土肥半左衛門の墓がある。

土肥半左衛門は、倉津安房守の家臣で、最上義光により倉津安房守が最上町小国に移封されるとき、これをとどめようとして聞き入れられず、化杉の木の下で切腹したと伝えられる。

しかし別説によれば、土肥半左衛門は、最上義光の長男の義康暗殺に深く関わっていたとも伝えられ、この地を流れる最上川辺で死んでいたのをこの地に葬ったとも云われている。

この二説は、時代的な相違があり、同一人物とは考えにくいところがあり、伝承が錯綜しているのではとも思える。

最上義光長男の義康の暗殺に関わった土肥半左衛門は、越中弓庄城主土肥政繁の女婿だった。上杉景勝に仕えていたが、関ヶ原合戦時の出羽合戦の折に上杉勢の別働隊として、尾浦城主下吉忠らとともに最上領に侵攻した。しかし、関ヶ原本戦での西軍の敗北により、上杉本隊は撤退し、土肥らは最上領に取り残され、下吉忠とともに最上勢に降伏し最上義光に仕えた。

慶長9年(1604 異説あり)義光の後継を巡り義光と対立した義康は、庄内の下山添で襲撃され殺害された。この実行犯は、尾浦城主下吉忠の家臣となっていた土肥半左衛門と上山里見氏の家臣の原八右衛門だった。事件後、半左衛門と八右衛門は口封じのためなのか討たれた。

この義康暗殺事件の真相については、義光の命によるとするものや、家臣らの暴走とするものなど様々に云われているが、その後山形最上藩の改易の遠因になったものである。