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山形県鶴岡市馬場町

震災前取材

鶴岡公園に、高山樗牛の胸像がある。
高山樗牛(本名林次郎)は、明治4年(1871)2月、庄内藩士斎藤親信の次男として山形県鶴岡市に生まれ、翌年叔父である高山久平の養子となった。養父は山形県、福島県、警視庁などに勤務し、樗牛は、山形県、福島県の小中学校を転々とし、福島中学中退後、東京英語学校を経て仙台の第二高等学校に入学した。

樗牛の号は「荘子」に因むもので、高校時代から用いていたといい、同人誌や山形日報などに評論、紀行などを発表していた。明治26年(1893)、東京帝国大学文科大学哲学科に入学、土井晩翠らが級友であった。その後、徴兵忌避のため、本籍を北海道に移したと云う。

在学中の明治27年(1894)に読売新聞の懸賞小説に『滝口入道』が入選し新聞連載され、『帝国文学』『太陽』などに盛んに文芸評論を発表した。明治29年(1896)に大学を卒業、第二高等学校の教授になった。しかし翌明治30年の、校長排斥運動をきっかけに辞任、博文館に入社し『太陽』編集主幹になった。

当時はロシアの三国干渉後で、国粋主義的な気運が盛り上がっており、「日本主義」を鼓吹する評論を多く書いた。一方で『わがそでの記』のようなロマン主義的な美文を書いたり、美学をめぐっては森鴎外と論争を行うなどしていた。

明治33年(1900)、文部省から海外留学を命じられ、これは夏目漱石、芳賀矢一らと同時期の任命であり、帰国後は京都帝国大学の教授が内定していた。しかし、留学の送別会後に喀血し入院、療養生活に入った。病中に書いた『文明批評家としての文学者』では、ニーチェの思想を個人主義の立場から紹介した。

論文『奈良朝の美術』により文学博士号を授与されたが、病状は悪化、明治35年(1902)12月、神奈川県平塚市で死去した。享年32歳だった。墓所は静岡市にあり、墓碑銘に「吾人は須らく現代を超越せざるべからず」とある。