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山形県天童市天童中一丁目

震災前取材

 

初代天童城主の天童頼直、二代城主頼泰の時代に、狐崎喜太郎という家臣がいた。主君に命じられて上洛し、京都の伏見稲荷権現を参拝した。このとき神力を得て御位を受け帰郷した喜太郎は、天童城下に住む領民の守護神になるように命じられ、喜太郎稲荷神社が創建された。

喜太郎稲荷神社は、もとは四社あったといい、このうちこの地に残るものは、小路喜太郎稲荷神社と称されている。

天正年間(1573~93)、最上義光が天童頼澄を攻めたとき、狐崎喜太郎はその神力で幻術を使い、最上勢を大いに悩ませたが、天童勢は武運つたなく破れ、頼澄は重臣たちをともなって、関山峠をこえ宮城の国分氏を頼って落ちのびることにした。しかし、関山峠にかかるころ日はとっぷり暮れてしまった。一寸先も見えぬ暗やみの中で困っていると、喜太郎稲荷が現れ、火をともして道案内をしてくれたと云う。

天童氏はその後伊達氏に仕え、多賀城に所領を得て、多賀城の地にも守護神である喜太郎稲荷を祀った。