山形県鶴岡市小国字町尻

震災前取材

小国城は、庄内大宝寺(武藤)氏の南端の重要な支城で、標高348.5mの楯山の山頂部にある。麓からの比高は235.5mで、県内の中世山城跡では最大の比高差であり、庄内と越後を結ぶ古くからの主要街道が城跡の東麓の谷筋を通っている。

城跡は東西約1030m、南北約950mあり、東側と西側に谷が入り、北側に突き出した尾根の上に四つの郭を配置している。中央部の最高所に築かれた本郭跡は、約840㎡ほどの広さで、周りに土塁を巡らしている。東側に二の郭、三の郭、小規模郭群が続き、郭の南東側に登城道が取り付けられている。登城道は、小規模郭群を境にして北側に折れ、駒立場跡で折れ曲がって北麓に下っている。駒立場は城の出入り口を守る枡形虎口で、上杉氏による大改修によって増設された防御施設と考えられている。本郭跡の西側には、西大屋敷と呼ばれる約2000㎡ほどの広大な郭があり、ここが居住区域と推定される。

戦国時代の庄内地方は、大宝寺氏と最上氏の抗争が繰り返され、大宝寺氏は越後の上杉氏に服して庄内地方の支配を強めた。しかし天正15年(1587)に最上義光の庄内侵攻によって大宝寺義興は滅亡し、義興の養子義勝(北越後本庄繁長の子)は小国城に立てこもった。翌年、本庄繁長、大宝寺義勝は十五里ヶ原の戦いで庄内を奪還したが、豊臣秀吉による奥羽仕置に対する一揆を煽動した罪で本庄氏と大宝寺氏は庄内を追われ、庄内は上杉氏の直轄となった。

慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの結果、最上義光は庄内の上杉領を併合したが、最上氏は元和8年(1622)に改易された。大宝寺氏、上杉氏、最上氏はともに小国城を羽越国境の重要支城として取り立てている。

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