山形県天童市仲町一丁目…三寶寺

震災前取材

 

この廟がある三寶寺は、文政13年(1830)、幕府寺社奉行より織田宗家の菩提寺を申し付けられた。天童織田藩主から、20両が下賜され、御霊屋を建立した。太祖織田信長をはじめとし、代々の藩主や家族、79名の御位牌が安置されている。

慶応4年(1868)、戊辰戦争で天童は戦火にかかり、御霊屋は焼失したが、御位牌は運び出され難を逃れた。現在の御霊屋は、元織田藩士らによって、昭和6年(1931)に建立され、仰徳殿と呼ばれている。

天童の織田氏は、織田信長の次男の信雄を祖とする。信雄は、家康と組んで小牧・長久手の戦いで秀吉と戦ったが、その後は秀吉に臣従し豊臣大名となった。関ヶ原の戦いには西軍に加わり、そのため所領を没収されたが、のちに家康から所領を与えられ、上野国小幡で2万石の大名となった。

このとき織田氏は、特に信長以来の名族であるという格式を幕府から重んじられ、国持大名格や網代の輿、爪折の傘を用いる特権を与えられた。

ところが、織田信邦の代である明和4年(1767年)、尊王攘夷の軍学者の山県大弐が関わる事件に連座してしまい、信邦は幕命により強制隠居の上、蟄居を命じられ、それまでの特権も全て剥奪された。家督は弟の織田信浮が相続し、小幡から山形の高畠へ移封となった。

しかし、この時期は天明の大飢饉の時期にあたり、藩財政は悪化し、家臣団ですら食うに困り、織田家から辞した者も少なくなく、藩主は小幡への復帰を嘆願したがかなわなかった。その後、織田信美は所領の大部分が天童を中心とした村山郡に集中していることを考慮、居館を高畠陣屋から天童に移すことを幕府に願い出て、文政11年(1828年)、それを許され、信美は天保元年(1830)に陣屋を天童に移し、明治に至った。

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