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山形県天童市小路二丁目…妙法寺

震災前取材

 

幕末に近い天保2年(1831)、織田信長の子の信雄を祖とする天童織田藩が成立した。しかしわずか2万石の小藩だったがために財政難に悩まされた。

このような中、慶応4年(1868)、戊辰戦争が勃発し幕府軍が敗れ、新政府は会津藩、庄内藩の追討を仙台藩など東北諸藩に命じ、奥羽鎮撫総督九条道孝、副総督澤為量らを東下させた。天童藩は、織田宗家という家格を評価されて鎮撫使の先導を任じられ、織田藩家老の吉田大八は、藩主の名代として先導役を勤めた。

庄内藩は戦争不拡大の方針で事態を静観していたが、鎮撫軍が庄内藩を攻撃することを天童藩、山形藩らに命じると、先制攻撃を行い、最上川を渡り天童を攻撃、市街の南半分の230戸が焼討ちされ、天童陣屋も炎上した。

この時期、東北諸藩は戦闘を避けて穏便に和解を図ろうとしていたが、東北を賊徒として厳しい態度をとる鎮撫軍との間では亀裂が生じ、鎮撫軍参謀世良修蔵が暗殺され、奥羽越列藩同盟が結成された。小藩の天童藩も、東北諸藩のこの流れに抗することができず、列藩同盟に加盟した。

先導役を勤めた大八は、その責任により蟄居させられた。このとき親交のあった長州藩の桂太郎は、蟄居中の大八に逃亡を勧めたが、大八は「藩主に迷惑がかかる」と断ったと伝えられる。その後、列藩同盟からの圧力に対し、天童藩は大八に切腹を命じ、大八は、この妙法寺の観月庵で切腹した。このとき大八の血が天井まで染めたと伝えられる。

現在、観月庵は修築復元され、吉田大八関連の資料とともに保存されている。