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山形県天童市長岡

震災前取材

 

高擶城は、立谷川右岸の扇状地の微高地に築かれた。四重の堀に囲まれた輪郭式の平城である。城域は、東西約420m、南北約440mで、ほぼ方形をしている。ほぼ中央の 本郭は、東西約70m、南北約90mで、これを中心に二の郭と三の郭が配されている。各郭は、水堀で区画されていたと思われ、さらに外部には、城下集落を含んでの外郭が置かれていた。

昭和40年代までは、水堀が残っていたと云うが、現在は埋められ住宅地になっており、遺構の多くは失われている。しかし、城の遺構が消滅した現在でも、城域内の道路の多くは、鍵形路、丁字路、屈折路などの形状を良く残している。本郭のあった地には、現在楯の内公民館があり、ここに石碑と案内板が建てられている。

応永年間(1394~1428)に斯波直家は、長男満直に最上家を相続させ、次男頼直を天童に、三男氏直を黒川に、四男義直を高藷tに、五男兼直を蟹沢に、六男兼義を成沢に分知した。初期の高擶城は、この時期に四男の義直によって築かれた。義直は高擶氏を称し、以後高擶氏代々の居城となり、文明年間(1469~87)以後は天童城主天童氏の支城として整備された。

永正11年(1514)、伊達稙宗が山形盆地に侵入すると高擶氏は惣領最上氏に与して伊達軍と対峙したが、最上軍は敗北を喫し最上領は伊達氏の統治下に置かれた。同17年(1520)、最上義定が死去すると伊達氏は最上氏の家督相続に介入し、最上氏一族はこれに反発し最上宗家との対立を深め、以降、高擶氏は天童氏に与して反最上の立場をとるようになった。

しかしその後、天文11年(1542)、伊達氏に天文の乱が起きると、最上氏は「伊達の頚木」から離れ勢力を盛り返し拡大していったが、最上氏宗家と天童氏ら一族の対立は収まらず、天正12年(1584)、最上義光は天童城を攻め、天童頼澄は天童から退去し没落、高擶氏も天童氏とともに没落した。

江戸時代初期には宮崎内蔵丞、斎藤伊予守が城主となったが、元和8年(1622)の山形最上藩の改易により廃城となった。幕末の弘化4年(1847)に、上野館林城主秋元氏の采地陣屋が二の郭西側に置かれ、明治維新まで家中屋敷と呼ばれていた。