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山形県鶴岡市藤島字古館跡

震災前取材

藤島城は平城ではあるが、藤島川を外堀とし、向楯、平形楯などの前衛基地を設け守りを固めていた。

藤島城の創建は明らかではないが、和銅年間(708~713)に平形に出羽の国府が設置された際築かれたものという。出羽守や鎮守府将軍の居城として使われたものと思われる。

南北朝時代、この城は重要な南朝方の拠点であった。元弘3年(1333)、元弘の変によって出羽に流されてきた葉室光顕が出羽守に任命されて居城にしたと伝えられる。葉室氏は光世・光久兄弟へと代が移っても、藤島の地は南朝の拠点であることに変わりは無かった。

南朝方の北畠顕信は、貞和3年(1347)北朝方の結城氏や相馬氏と戦って敗れ、守良親王を奉じて出羽国に逃れた。そして北朝方である足利氏の内紛に乗じて南朝方の勢力を拡大させたが、足利氏の内紛が収まると再び形成は逆転し、出羽での居城にしていた立谷沢城は結城氏の大軍に囲まれ、顕信は善戦したものの敗れ、藤島城に逃げた。延文元年(1356)、再度兵を挙げたが形勢は動かず、藤島城は落城した。

その後、戦国時代に城主は土佐林氏へと替わり、土佐林禅棟の時代に上杉謙信との繋がりで勢力を伸ばしたが、武藤(大宝寺)氏に攻められて没落した。藤島には武藤義氏の弟である丸岡兵庫頭義興が丸岡城から入り、代々当主が持つ羽黒山別当職も兼務した。しかし、武藤義氏が家臣の前森蔵人に討たれ、丸岡氏が武藤氏を継いだが、これも討たれた。

その後上杉景勝の領となったが、天正18年(1590)、豊臣秀吉の太閤検地の際、栗田刑部小輔国時が藤島城に入城して検地に当たった。しかし金右馬允がこれに抗して一揆を起こし、藤島城の出丸として藤島川の対岸に金ノ郭を築き、藤島城を拠点に抵抗した。その際上杉氏の重臣である直江兼続が鎮圧にあたったがついに武力で落とす事は出来なかったという。

上杉家統治下では木戸玄斎が城主。関ヶ原後の最上家統治下では新関因幡守久正が城主を務めた。新関因幡守は慶長12年(1607)、この地に用水路「因幡堰」を開削して庄内平野を潤そうとした。しかし元和8年(1622)、最上家が改易され新関因幡守も志半ばで藤島城を去り藤島城も廃城となった。しかし印旛関は、その後庄内に入った酒井氏により開削は続けられ、60年以上後に完成した。