山形県真室川町字内町

震災前取材

 

別名:真室城

鮭延城(さけのべじょう)は、永禄年間(1558~70)に佐々木氏が築いたと伝えられるが詳細は定かではない。佐々木氏は、近江国から仙北に移り秋田横手城の小野寺氏の客将となった。佐々木氏は小野寺氏南進の先鋒として最上郡に入り、はじめは最上川沿いの戸沢村の岩花城を居城とした。しかし、永禄2年(1563)、佐々木貞綱は上杉氏を後ろ盾に庄内から侵攻した 大宝寺(武藤)義増に敗れた。このため岩花の北方、真室郷まで後退し、天然の要害である鮭延の地に城を築いた。これ以降、鮭延氏を称するようになった。

天正9年(1581)、最上義光によって鮭延城を攻められる。城主であった鮭延貞綱の子鮭延秀綱は、一度は抵抗したものの最終的に降伏した。鮭延氏は最上義光に領土を安堵され、最上義光に恭順した。このため鮭延城は小野寺氏から最上氏の城へと変わり、最上氏の 大宝寺(武藤)氏、小野寺氏攻略の拠点となった。鮭延秀綱は最上義光に仕え、庄内攻略戦で活躍するなど最上家中で頭角をあらわした。長谷堂城の戦いでは目覚しい活躍を見せ、上杉の大将直江兼続本陣を脅かし、直江に「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と言わしめたという。この出羽合戦の論功行賞により1万1千500石を与えられた。

元和8年(1622)、最上氏が改易され、 鮭延秀綱は佐倉藩主土井利勝の元に預かりとなった。秀綱の家臣達は乞食をしてでも主を養うと言い、日頃家臣を大切にした秀綱のもとを離れず、感激した土井利勝が秀綱を家臣として召抱えたという。しかしこのとき、与えられた知行5千石は、山形以来の家臣に全て分け与え、自身は家臣の下を転々として暮らしたと伝えられる。土井氏の国替えに従って古河へ移り、かの地にて没した。

最上氏の知行地は分割され、最上地方には、常陸松岡藩主戸沢政盛が6万石で入部し、当初はこの城に入ったが、山城であったため幕藩体制下の領国経営には適さなかったため、新庄城を築城し新庄へ移った。これにより、鮭延城は廃城になり、城は破却された。

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