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山形県真室川町新町…正源寺

震災前取材

 

鮭延氏は、近江源氏佐々木氏の流れで、大永年間(1521~27)、小野寺氏の客将として真室郷に居館を築き、最上、庄内の番城としてこの地を押さえ、姓を鮭延と改めたものと伝えられる。

この地は、庄内大宝寺(武藤)氏、横手小野寺氏、山形最上氏らの接点にあたり、それぞれの勢力にとって重要な地だった。庄内を手中にした大宝寺氏は、この地に侵攻し鮭延氏を破った。当時幼少の秀綱は捕らえられ、人質として庄内に送られた。

この当時、山形最上氏は一族との激しい対立抗争に明け暮れていたが、その結果、最上義光が強力な勢力を確立した。天正9年(1581)、義光は鮭延氏攻略を決意し、氏家尾張守を将として鮭延城を囲んだ。このときの鮭延城主が当時若干16歳の秀綱だった。しかしその知勇は衆に優れ、再三の降伏勧告にも耳をかさず、長期間にわたり抵抗を続けた。しかし、ついに兵糧も尽き、最上義光の軍門に降った。

天正14年(1586)、横手の小野寺義道は、鮭延秀綱の真室を攻略すべく大軍で侵攻してきた。これに対して最上義光は、嫡子の義康、楯岡満茂を将として一万余の軍勢を送った。これを見た小野寺勢は有屋峠を越え最上領内に侵攻、最上勢を激しく攻撃し最上勢は総退却となった。以後、戦線は膠着状態となったが、秀綱らが手勢を率いて小野寺勢に打ちかかり、これが引き金となって小野寺勢と最上勢は激戦となり、最上勢は小野寺勢を押し返した。

この後も、度々小野寺領内に攻め入り、あるいは小野寺勢力を懐柔するなど活躍をし、小野寺氏攻撃の機会をうかがっていたが、上杉勢が庄内に進攻し、最上氏がこれに大敗を喫したため、小野寺氏攻略はあきらめざるを得なくなった。

慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦の折に、上杉の重臣直江兼続は、最上氏を討つべく大軍を率いて村山郡に進出した。上杉軍は畑谷城を攻め落とし、次いで長谷堂城を包囲した。長谷堂城は、山形城の重要な防衛拠点であり、長谷堂城の志村伊豆守は決死の覚悟で防戦につとめた。義光は、楯岡光直や清水義親、鮭延秀綱に数千の兵を与えて救援に向かわせた。

このときの秀綱の活躍はめざましく、古文書には「さても今日鮭延が武勇、信玄、謙信にも覚えなしと、後日に直江が許より褒美をぞしたる」と記されている。また次のように記されてもいる。

「鮭延四五十騎の鼻をならべ、切先を揃えて駆ければ、会津勢取囲んとや思ひけん。陣を奮しが、鮭延少も猶予せず縦横に破り、巴に追廻し、前後を払て突伏せ、切倒せば、流石に聞こえし会津勢も一陣、二陣混乱して、既に直江が旗本迄近付く。中にも鮭延左衛門尉いまだ十六歳の若者なれども、力尋常に勝れしが、大音揚げて「敵の大将を組留よ。直江はあれに見ゆるぞ。兼続が旗は夫ぞ」。と喚き叫んで駆けちらす。其勢ひ悪源太義平が勇力にも勝るべくぞ見えにけり。敵三人を突落し、手疵負せしは数を知らず。我身も六ケ所疵を蒙り、同新田十助五人を突伏せたり。越前守は三尺五寸の太刀を片手にとりて、胄の鉢を割付け、篭手、臑当、草摺ともいはず当るを幸に切て落す」

結局この合戦は、関ヶ原での東軍の勝利により上杉勢は退却し、最上義光は戦功を賞され、田川、櫛引、飽海、由利の四郡を加増され、念願の庄内全域を手に入れた。所領はこれまでの最大版図となり、五十七万石の大大名となり、領内の25城地に家臣を配し、秀綱は真室城主として1万1500石を領した。

しかし元和8年(1622)最上家が改易になると、秀綱は老中土井利勝に預けられた。このとき秀綱には、乞食をしても主を養わんと、20人以上もの家臣が付き従い、土井利勝はこれに感じ、のちに許されてから土井家に5千石で迎え入れた。しかし秀綱は自ずからは何も受けず、この5千石を家臣に分け与え、秀綱自身は家臣の家を一日代わりに養われて生涯を送ったという。正保3年(1648)6月、84歳で古河城下に没し鮭延家は絶えた。

その後、この家臣たちは秀綱のために一宇を建立し、それが現在、古河の城下にある鮭延寺だと云う。