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山形県金山町谷口銀山

震災前取材

 

谷口銀山は、源義経ゆかりの金売吉次が発見したと伝えられる。吉次山の地名も残り、多くの古い堀り跡が見られる。

最上義光時代も掘られたが、本格的に開発されるのは、元和9年(1622)新庄藩主戸沢政盛が入部して以来のことで、最盛期は寛永から慶安(1624~51)にかけてと見られる。

全盛時代の伝えによれば、坑道が66ヶ所、銀掘小屋3千軒、遊女宿70余軒があったとされ、毎日7頭の牛に、生銀33貫目ずつ積み、7ヶ月間一日も休みなく運ばれたと言われている。二代藩主正誠の頃まで藩の財政を大きくうるおしたものと考えられる。

古文書にはその繁栄を、「内町千軒外町千軒の町屋を並べ、遊女、傾城、粉薫の化粧にのみ光陰をおくる」と記してある。

弘化2年(1845)、水抜きの困難から廃坑になった。坑道のほとんどは埋め戻され、今では滝の脇の坑口など数ヶ所の坑口がわずかに残っている。