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山形県鶴岡市家中新町

震災前取材

鶴岡城三の丸内南側にあたるこの地は、酒井氏が領主になった当初は、藩の御用屋敷が置かれ、 慶安年間(1648~52)には酒井忠勝の次男忠俊の住居があった。

現在建っているこの建物は、文久3年(1863)、第十一代藩主酒井忠発の隠居所として建てられたもの。この前年の文久2年(1862)9月には生麦事件が起き、日英関係は悪化し江戸市中は騒然としていた。幕府は非常事態に備え、参勤交代制を改正し、江戸在住の大名家族にことごとく帰郷するよう命じた。

これに従い、前藩主酒井忠発夫人、忠恕夫人等大勢の酒井家の家族が庄内に移住し、江戸屋敷の中の御隠殿や、高畑御花畑御殿などを解体し、鶴岡まで船で搬送し移築、退去した家族らの住居として利用した。江戸屋敷を解体した木材や瓦などは、江戸から西廻船で酒田に、さらに川船で鶴岡に運ばれた。

また、現在この地に残る赤門も、このとき御隠殿に付随するものとして移築された。江戸時代の大名家では、将軍家との慶事の際には、江戸屋敷の門を朱塗りにするという通例があり、この地の赤門は、酒井家に田安徳川家からお姫様が輿入れしたときに朱塗りされたものと伝えられる。

御隠殿の奥の座敷は、能を催す為に厚い床板を使用し、床下には大甕を敷き詰め音響をよくしたといわれている。御隠殿北側の庭園は、東北では数少ない典型的な書院庭園で、国指定名勝となっている。