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山形県鶴岡市羽黒町手向字羽黒山

震災前取材

 

出羽三山は、山形県庄内地方にひろがる月山、羽黒山、湯殿山の総称であり、修験道を中心とした山岳信仰の場として、現在も多くの修験者、参拝者を集める。月山、湯殿山は、冬場は深い雪のために近付くことは出来ないため、羽黒山上の出羽神社に合祀され三所権現と称し、羽黒山は月山、湯殿山両神社の里宮としての性格も併せ持つようになった。

古代の出羽はいわゆる蝦夷の国で、初めて田川郡が置かれたのは、天武天皇11年(682)であるという。しかし出羽三山はそれより以前、崇峻天皇の子の蜂子皇子により開山したと伝えられる。

蜂子皇子は、蘇我馬子に暗殺された三十二代崇峻天皇の第三皇子であった。しかし蘇我馬子らの横暴を避け、聖徳太子の勧めにより仏門に入り、弘海と称し旅に出た。日本海側の京都由良から船で北上し、推古天皇元年(593)に、八人の乙女に迎えられ出羽国由良の八乙女浦に上陸し、三本足の大烏が飛び来たり、皇子を羽黒の地に導いたと云う。皇子が滝を前に石の上に端座すると、やがて羽黒の大神が現れ、その神の云われるまま苦行を積み、月山、湯殿山にも登り、出羽三山を開山したという。羽黒の地名は、皇子を導いた三本足の大烏の羽色に由来すると伝える。

蜂子皇子は不可思議な呪術をもって人々の教化を行い、病を治し、災いを除き人々から苦悩を除いたという。このことから「能除仙」と称せられ、人々の崇敬を集めた。その後、越前の白山を開いた泰澄、修験道の祖の役行者、真言宗の開祖空海、天台宗の開祖最澄などが来山し修業を積んだと伝えられ、修験道が確立されていった。

羽黒年代記によれば、平将門は羽黒本社を延長5年(927)造替、さらに五重塔を創建した。また将門の娘の如蔵尼ははるかに相馬から羽黒山に来たり住み、羽黒で没したと伝えている。

鎌倉時代、中国の元が日本に攻め込もうとしていた時期、幕府や朝廷は、諸大社に敵国降伏の祈祷をこめ、この羽黒山にも祈願した。将軍家が羽黒の宮前に敵国退散の祈願をこめたところ、九頭龍王が忽然として羽黒より黒雲を巻き起こして飛来し、見る間に日本海に消えた。間もなく蒙古の艦船が大風を受けて壊滅し、人々はこれを羽黒の龍神の働きであると噂し、幕府は建治元年(1275)、巨鐘を鋳て奉納した。

その後、出羽三山は時の支配者の崇敬を集め篤く保護されてきた。戦国時代に庄内を支配していた大宝寺(武藤)義氏は、弟の武藤義興を羽黒山別当職にした。庄内が上杉景勝の支配下になると、直江兼続は庄内支配に乗り出すと佐野清順を羽黒山主として、それまでの別当は追放された。さらに慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いにより上杉家の庄内支配が終わり最上義光の庄内支配が始まると、今度は清順が追放され、最上一族の宝前院宥源を別当とし、宥俊、天宥と受け継がれた。

天宥は、寛永11年(1634)に別当職につき、徳川の知恵袋の天海に師事し、羽黒山の真言宗から天台宗への改宗を行い、羽黒山の改革や整備に尽力した。江戸時代には天宥以来天台宗の羽黒山と真言宗の湯殿山との対立などもあったが、明治に入り神仏分離がなされ神社となった。

江戸時代の元禄期に、松尾芭蕉が羽黒山を訪れ南谷の別院に宿泊し

有難や 雪をかほらす 南谷

の句を残し、さらに月山に上り湯殿山に参詣している。