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山形県新庄市本町

震災前取材

 

渋谷風流亭跡は新庄市役所の西、商店街の中に標柱が立っている。

元禄2年(1689)6月、大石田を出た松尾芭蕉と曾良は、猿羽根峠を越え鳥越の柳の清水を経て、尾花沢で知り合いとなった豪商の渋谷風流宅に着いた。 当時の新庄藩は二代藩主戸沢正誠(まさのぶ)の代で、この頃までに初代藩主政盛から継承した藩政の諸策が整い、城下は財政、文化両面において全盛の時代を迎えていた。

風流宅で芭蕉歓迎の宴が設けられ、この席上、「水の奥」三つ物が詠まれたと思われる。
芭蕉の発句は、

水の奥 氷室尋る 柳哉

で、6月1日は「氷室の節句」で、古来からこの日に氷室に貯蔵した氷を食する習わしがあった。庶民の間では、前年の12月の雪水でこしらえた「凍り餅)」や「欠餅」をこの日に食し、暑気払いや夏の厄除けをしていた。

翌日芭蕉は、風流の本家筋の渋谷盛信に招かれた。盛信は風流の兄で、風流宅の斜向いに屋敷を構えていた。大規模な問屋業を営む商人で、城下一の豪商だったと伝えられる。ここで「御尋に」の歌仙が巻かれ、「風の香」三つ物もこの日に詠まれたものと見られる。

風の香も 南に近し 最上川