山形県新庄市角沢

震災前取材

 

角沢八幡神社付近は、戊辰戦争の際の激戦地として知られている。庄内軍はこの角沢口から新庄城下に突入して新庄城を落とした。

慶応4年(1868)、奥羽諸藩は、会津藩、庄内藩赦免の嘆願書を九条総督に提出したが却下されたため、仙台藩を盟主として奥羽越列藩同盟が結ばれた。しかしながら、その足並みは必ずしもそろっていたとは言いがたく、秋田久保田藩はなおも藩内の意見が不安定だった。仙台藩は久保田藩の真意を確認するため、久保田藩に使者7名を派遣した。しかし久保田藩の尊皇攘夷派は、7月4日、仙台藩の使者と盛岡藩の随員を全員殺害し列藩同盟を離脱した。

このため、庄内藩兵と仙台藩兵を中心とした同盟軍は、新政府軍、久保田藩兵と対峙し、新庄藩と久保田藩の藩境の森合峠や有屋峠で戦った。しかしこの戦いの中で、新庄藩及びその支藩は新政府側につき、仙台藩兵は前後に敵を受けて壊滅した。

これに対して庄内藩は、白河救援のために移動していた部隊約900人が、新庄にいた庄内藩の部隊と舟形で合流し、この角沢口に殺到した。庄内藩の装備は新しく、また訓練もされていたため、新庄勢はこれを支えきれず新庄城に引いたが、庄内勢はそのまま一気に新庄城を攻め落としたと云う。