山形県新庄市下金沢町

震災前取材

 

「まかどの地蔵」は新庄市の南、接引寺境内にある。もとは芭蕉ゆかりの「柳の清水」のところにあり、そこは城下町特有の鉤型の道の角であったところから、「まかどの地蔵」と呼ばれた。その後、現在の接引寺に移された。

江戸時代、宝暦、天明、天保と東北では大飢饉があり、数多くの餓死者が出たと伝えられている。まかどの地蔵は宝暦5年(1755)の飢饉の餓死者を弔う為に建てられた。この地蔵は、春秋の彼岸のときは、寺参りに来た人々が、家から持ってきたぼた餅や団子を、餓死者の供養のために地蔵に食べさせる風習があり、その口もとが、ぼた餅や団子のあんこで汚れている。

この宝暦5年はひどい冷害で、このため米は実らず、無数の餓死者が出た。他国からも土地を捨て、食べ物をもとめ流れ来る物乞いの群れは限りなく、町外れに野宿していたが、飢えと疫病のため次々と倒れていった。新庄藩は、これらの死骸をはじめは接引寺境内に葬っていたが、犬や狼が掘り出し、また餓死者が急激に増えるため埋葬しきれず、角沢街道の村はずれにも大きな穴を掘り、餓死者を次々と投げ込んだ。

この年の夏は、例年になくウンカが大発生し、稲穂にとりつき白穂にさせた。この虫は、うらみを抱きつつ飢餓道に陥って死んだ人々の生まれ変わりであると村人達は噂しあった。

接引寺の石地蔵は、この年の餓死人を供養するため、村の人々が喜捨して建立したものである。