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山形県庄内町狩川字楯山

震災前取材

 

楯山公園の一画に、北楯大学利長を祀る北舘神社がある。

関ヶ原で東軍についた最上義光は、慶長6年(1601)上杉氏が支配していた庄内を領した。義光は北楯大学利長を狩川城番に任じ、この地を経営させた。利長は、庄内平野一帯が深刻な水不足に悩まされていたことを憂い、川床が高く水量の豊富な立谷沢川の水を清川山を切り割って開堰し、狩川から庄内平野に引水することを義光に具申した。

この計画の規模の大きさに義光も躊躇したが、新関堰を開いた藤島城主の新関久正はこれを支持し「この工事は領民や領内の発展のために重要であり、これを放置すれば末代までの損失だ」と指摘し、義光は意を決したという。

慶長17年(1612)工事が始まったがそれは困難を極め、山が崩れ16名が命を落としたこともあり、領民をこの工事に出していた最上家臣達は、村人を自領に戻し始めた。利長は義光に、自分に総指揮権を与えて欲しいと直訴し、三年の期限が付けられ認められた。三年で完成しなければ利長は切腹しなければならなかった。工事は進み始めたが又難題が発生した。取水する立谷沢川と最上川の合流する地の清川は、川の流れが渦を巻き、幾ら土砂を入れても翌日までには流されてしまった。

利長は、秘蔵していた青貝の鞍に大石を結び川に投げ込み、龍神に祈りを捧げると、川の渦が消え工事は一気に進んだという。その後、工事は順調に進み、同年7月には本流の工事がほぼ完了した。

この全長34キロにも及ぶ堰を現在では『大学大堰』や『北楯堰』と称しており、この地の石高は、開堰後20年で、当初の3千石から3万石に増加したという。のちに義光から「庄内末世の重宝を致し置き候」と絶賛されたという。

後に最上家は改易され利長もこの地を失ったが、新領主の酒井忠勝は、利長の功績を賞し召抱えようとしたが利長は固辞し、代わりに息子を仕官させて寛永2年(1625)、78歳で没した。