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山形県庄内町狩川字楯山

震災前取材

 

別名:楯山城

南北朝期に、出羽郡司小野良実の後裔の斎藤新九郎俊氏が、この楯山に城を築き、北朝軍に備えたと伝えられているが詳細は定かではない。その後、上杉景勝が庄内地方を領し、家臣の直江兼続が検地を行った際に一揆が起こり、この城がその拠点として使われた。

関ヶ原の戦いの後にこの地を領した最上義光は、慶長6年(1601)北楯大学利長に3000石を与えこの地を経営させた。

利長は、立谷沢川を開堰し、この狩川から庄内平野に水を引いた。その延長は32kmにもおよび、「大学大堰」と呼ばれている。この堰のおかげで、石高は10倍も増え、最上義光をして、「庄内末世の重宝を致し置き候」とその功績を賞賛した。

南北126m、東西90mの細長い城で、大手門からは清川街道を眼下に見下ろし、背後に深山を抱える要害の地だったが、元和元年(1615)、幕府の一国一城令により破却された。

現在は楯山公園となっており、公園の一画には北楯大学を祀る北舘神社がある。