スポンサーリンク

宮城県大崎市古川大崎字名生

震災前取材

足利幕府は、全国に足利一族を配して統制をこころみていた。貞和2年(1347)に、斯波氏一族の大崎家兼が奥州探題となり、奥州入りした。当初は多賀城近辺に居を構えたようだが、その後師山城に居城し、小野城、そして中新田城に移った。名生(みょうう)城は、「三浦将監軍忠状」によると、大崎家兼が観応2年(1351)頃に完成されたことが記載されている。名生城は、大崎氏代々の本拠城とも伝えられるが、異説もあり、小野(この)城、中新田(なかにいだ)城とする説もある。

名生城は、広大な段丘面を利用して築城され、規模、構想の雄大さは当時の大崎氏の権勢の大きさを示している。大館、小館、内館、北の館などに分かれており、本丸にあたる大館は東西九十四間、南北六十三間の広さである。幅5~25m、深さ3~5mの大小の堀を巡らし、なかでも内館と北館、二の溝を画す堀は幅13m、深さ5 mにもおよぶ。

大崎氏が奥州へ下向する前の奥州は、南北朝の対立と、観応の擾乱による対立が複雑にからみ、吉良氏と畠山氏、それに北畠氏が争いを繰り広げていた。このような中に文和3年(1354)、斯波家兼が奥州管領に任命されて奥州へ下向した。家兼の子の直持が跡を継ぎ、斯波氏は、畠山氏、吉良氏、石塔氏、との争いの中で次第に台頭し、急速に勢力を広げていった。

明徳2年(1391)、直持の跡を継いだ詮持の頃、陸奥と出羽の両国は鎌倉府の支配下に置かれ、詮持は最初は鎌倉府に協力していたが、後に詮持は直接幕府と交渉して応永7年(1400)に奥州探題の地位を得た。これにより、詮持と鎌倉府とは対立するようになった。

詮持の後は、4代満持、5代満詮と続き、満詮の頃から大崎氏を名乗るようになり、鎌倉府と対立しながらも勢力を拡大させた。6代持詮の頃、永享の乱(1438~39年)によって幕府は鎌倉府を滅ぼし、奥州探題大崎氏は奥州第一の権力を握った。しかし、奥州の諸家の内部争いが各地で勃発し始め、奥州探題の大崎氏はその紛争の調停者として各地を奔走することとなった。7代教兼の頃からは、大崎氏は家臣の相次ぐ反乱により、急速に没落していき、伊達氏の台頭とともに、次第にその影響を受けるようになる。

長享2年(1488)、9代義兼は、家臣の内乱に対して伊達氏を頼った。伊達成宗は300騎の兵を出して義兼を救ったという。また、天文5年(1536)、11代義直の時には、新田頼遠が反乱を起こし、氏家氏、古川氏、高清水氏などの重臣も義直に反抗した。義直は伊達輝宗のもとに亡命し援助を求め、輝宗は自ら出陣し乱を鎮めた。

天正16年(1588)、13代義隆の時に、家臣の内部争いが勃発し大崎氏は2つに割れた。大崎氏家臣の氏家吉継は伊達家に援軍を要請し、それに応じて伊達政宗は大崎領に兵を送り出した。この伊達氏の大崎出兵により、大崎氏内部の争いから大崎氏と伊達氏の争いへと発展してしまった。この「大崎合戦」は伊達氏の敗北とはなったが、その力を背景に、講和条件は伊達氏に有利なものだった。

天正18年(1590)、豊臣秀吉は小田原の北条氏を滅ぼした。この参陣の呼びかけに応じなかった13代大崎義隆は秀吉から所領を没収され滅亡した。大崎氏と同様に所領を没収された葛西氏の旧領には、秀吉の家臣である木村吉清が入ったが、葛西・大崎一揆で木村氏は失脚し、大崎氏と葛西氏の旧領は伊達氏の所領となった。

大崎葛西一揆の際には一時蒲生氏郷が居住したが、一揆の鎮圧により廃城となった。伊達政宗の岩出山築城に際し、秀吉に派遣された徳川家康がこの城に立ち寄ったことを最後に、文献にも現れなくなる。