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宮城県大崎市古川小野西館

震災前取材

別名:小野(この)城

小野(この)御所は、大崎氏初代、斯波家兼時代に築かれた大崎五御所のうちの一つ。

中心の内館は、南北80間、東西39間の規模だった。当時、東を除く三方は大きな沼に囲まれており、天然の水堀になっていた。

大崎氏は、奥州に下向した当初は、多賀城に居住し、その後じきに師山城に移った。そしてさらに、小野城、中新田城、名生城など、転々と本拠城を移したらしい。

大崎氏十代大崎高兼の時には小野城が本拠城だった。高兼の跡を継いだ弟の義直は、家臣の反乱に対してこれを鎮圧することが出来ず、当時大きな勢力を持っていた伊達稙宗に救いを求め、稙宗は自ら兵を率いて二年がかりでこの乱を平定した。しかし、その代償として伊達氏は大崎氏の養子縁組を要求し、高兼は娘の梅香姫の婿として稙宗の次男の小僧丸を迎え入嗣した。

梅香姫は、近隣に聞こえた美貌の持ち主で、若武者ぶりの凛々しい小僧丸とは似合いの夫婦となり、仲睦まじかったらしい。

しかし、大崎家中にはこの縁組をよしとしない者も多く、それでも大崎高兼の存命中はまだよかったが、その死後、家臣団は十二代義宣(小僧丸)派と十一代義直派に分かれ、反目しあうようになった。いつしか小野御所(現古川小野)に住まう義宣(小僧丸)と、名生城(現古川市名生)に移り住んだ義直の二人の領主が存在するようになってしまった。

この頃、伊達家は十四代稙宗と十五代晴宗の親子間に争いが起こった。この争いは、婚姻関係により、伊達氏の影響を大きく受けていた南奥州の諸大名にまで影響が及び、ついには天文11年(1542)から7年間にわたって続く天文の大乱と称される戦いに発展した。

大崎家では、稙宗側についた義宣(小僧丸)派と、晴宗側についた義直派が相争う形となった。義宣(小僧丸)はこの戦で、軍を率い、あるいは稙宗の使者として領内諸将をまわり活躍し、序盤の稙宗側優勢の原動力となった。しかし晴宗側は次第に稙宗側を切り崩して行った。

結局、天文の大乱は時の将軍、足利義輝の裁定で稙宗は丸森城へ隠居し晴宗側の勝利となった。この結果、晴宗側の大崎義直が大崎家の実権を握ることになり、義宣(小僧丸)は、小野御所から岩手沢城(現岩出山)に移され幽閉されることになった。

天文18年(1549)8月、領内に台風が荒れ狂い、義宣(小僧丸)の妻の梅香姫が倒れた家屋の下敷となり落命した。義宣(小僧丸)は幸いにも一命を取り留めたが、これまでの経緯から、台風に乗じた義直派の者の陰謀と疑い、ただちに出奔し、桃生郡辻堂(現石巻市辻堂)に逃げた。しかし、ここで大崎義直の追っ手に襲われ殺害された。一説には捕縛された後に切腹したとも、病死したとも伝えられる。享年25歳といわれている。

その後、名生城の義直が大崎家の実権を握ったが、大崎家の没落を止めることはできず、天正18年(1590)、十三代大崎義隆の代に、豊臣秀吉の小田原参陣に応じなかった咎で領地没収となり、大崎氏は滅亡した。