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宮城県大崎市清水沢字鴻ノ巣

震災前取材

現在の大崎市鴻ノ巣は、正徳年間(1711-16)より伊達氏家臣松前氏が2000石を以て領し、以後明治まで所領したという。100m四方のお屋敷と称される丘陵を中心とし、その周囲を内堀、外堀が巡っていたとされる。付近には表小路、裏小路、御門、送り屋敷、札場など、ゆかりの地名が残る。また稲荷神社は館主松前氏の氏神だったという。

この地の松前氏の祖は、北海道松前城主松前慶広の五男安広と伝える。安広は江戸への途中、伊達領の白石に立ち寄り、片倉小十郎重長の世話になり、白石に落ち着いてしまった。その後安広は、重長の推挙により伊達家に仕官し、一千石を賜り、後に二千石を賜った。

安広が仙台藩の家臣となったいきさつは、次のように伝えられている。

松前安広は、江戸へ遊学へ向かう途中白石にさしかかり、一休みがてら白石川の清流で魚釣りを楽しんだ。このとき、領内視察をしていたこの地の領主の片倉重長が、何者であるか尋ねると安広は悠然と、「片倉か、苦しうない」と答えたという。安広と重長は互いに名乗りあい、年が近いせいもあり意気投合したという。白石城に案内され、白石で長逗留するうちに疱瘡を患い、片倉家から手厚い看護を受け一命を取り留めた。安広はその恩義に感じ、仙台藩の家臣になったと云う。

その後安広は重長の娘を室とし、景長、広国の二人の男子を設け、長男景長は重長の養子となり片倉家を相続し伊達家一門となった。広国は寛文事件で忠臣として活躍し、歌舞伎の「千台萩」では、松前鉄之助のモデルとなっている。このようないきさつがあるため、松前藩主は参勤交代の節は、必ず白石に泊り、片倉氏を訪問するのが慣例となっており、また松前氏は、何か重大事が起きると仙台藩を介し、幕府に上申していたのも、このような関係からであると思われる。