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宮城県大崎市岩出山大学町

 

この地は、伊達の家臣、原田氏三代、十七代左馬之助宗時、十八代甲斐宗資、十九代甲斐宗輔の屋敷だったと伝える。原田氏は伊達氏初代の朝宗以来の代々の重臣であった。

 

◆原田左馬之助宗時(はらださまのすけむねとき)

伊達政宗に早くから仕え、武勇に優れ、若干18歳から軍事を指揮し、政宗の厚い信頼を受けていた。摺上原の戦いにも参加して武功を挙げている。後藤信康と武功を争い対立関係にあり、あるとき宗時は信康に決闘を申し入れた。しかし9歳年長の信康に諭され和解したというエピソードも残る。また、朝鮮出兵における出陣式で、伊達軍団のいでたちは「さすがは伊達者」と言われるほど派手であった。中でも原田宗時と後藤信康の二人は特に目立ち、宗時は、長さ1間半もの大太刀を金の鎖で肩から下げ、地面にとどきそうであったという。

信康は勇猛果敢で智略に富み、軍奉行を務める。宗時と信康ははライバル関係にあり、とくに若い宗時の信康に対する対抗心には強いものがあった。二人のエピソードに次のようなものもある。

原田宗時と後藤信康は常に先陣を争い、この時も信康が夜中にこっそり抜け出して本丸に忍び込んだところ、「えらい早駆けじゃのう」という声がすると思ったら、すでに宗時も城内に忍び込んでいたという 。

朝鮮出兵のときに政宗に従って渡海したが、まもなく釜山にて病を患い、対馬国にまで戻ったがそこで同年のうちに病死した。政宗は宗時のあまりにも早すぎる死を惜しみ、『国風六首』を詠じたという。

 

◆原田甲斐宗資(はらだかいむねすけ)

伊達家臣、桑折宗長の子に生まれたが、原田宗時の急死により、伊達政宗の命で原田家を継いだ。関が原合戦の折に、伊達政宗は徳川家康より上杉景勝討伐のために領国への帰国を命じられた。政宗は上杉の支配が及ばない相馬義胤領を通過して帰国をしようと試みた。しかし、伊達氏と相馬氏は仇敵同士であり、また相馬氏は大坂の石田三成からの誘いを受けていて、政宗が相馬領を通過する時に討ち取ろうとしていた。

原田宗資は、伊達政宗の使者として相馬義胤の説得に赴いた。武士としての道に反すると考えていた相馬の重臣の水谷胤重を説得し、胤重はこの説得を受け入れて、義胤に進言し、政宗一行は無事相馬領を通り、岩出山城へと帰還できた。この功により、後に船岡城主(三千石相当)に任じられた。

 

◆原田甲斐宗輔(はらだかいむねすけ)

父は宗資、母は香の前の娘で政宗の落胤との噂もあった津多女。

寛文3年(1663)、伊達家家老に就任した。四代藩主伊達綱村の就任に伴い、綱村の叔父、伊達兵部が仙台藩の実権を掌握した。原田宗輔は、伊達兵部と共に藩権力の集権化を行い、地方知行制を主張する伊達安芸らと対立した。

寛文11年(1671)、騒動の解決を目的とし、大老酒井邸に召喚された原田宗輔は、同じく召喚されて来ていた伊達安芸をその場で斬殺する。しかし、自身も伊達安芸派の柴田外記と斬りあい、柴田外記ともども死亡した。事件の責任を取る形で原田家は処罰されたが、伊達家はお咎め無しとされた。

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