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宮城県大河原町金ヶ瀬字神山

人皇三十代敏達天皇の元年(571)、日本武尊を祭神として創建された。その後、用明天皇が、橘豊日尊と呼ばれた皇子の頃、この地に来たことがあり、その子の聖徳太子がこの地のゆかりをもって大高山神社に祀ったと伝える。

景行天皇40年(110)、日本武尊は東国平定のためこの地を訪れ、この地に仮宮を建ててしばらくの間過ごした。都への帰途、日本武尊は伊吹山にて大蛇にふれて傷を得て、伊勢に入り能褒野にて息絶えた。尊は白鳥になってこの地に飛び来たったと云う。そのため、その跡地に白鳥大明神 として日本武尊を祀ったものと伝えられる。

この「白鳥伝説」はその後橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)ともまつわり、次のような伝説として伝えられる。

橘豊日尊は、第二十九代欽明天皇の皇子で、勅命を受け東国巡幸の旅に出た。この地の住民はこれを迎え、尊はこの地に約3年間滞在した。

この地の長者に玉倚姫(たまよりひめ)という世にもまれな美しい娘がいた。玉倚姫は性格も温和貞淑で、二人はいつしか恋仲になった。ある日、姫は白鳥が飛び来たって胎内に入る夢を見て、まもなく皇子が生まれた。尊は入国以来白鳥を神と崇めて祈願した賜物と喜んだ。しかしまもなく尊のもとに都より帰還の命が届いた。別れを惜しみ、嘆き悲しむ姫に、尊は、3年後には必ず迎えの使者をよこすと約し都に帰った。

尊を想いながら3年が過ぎたが、姫の元に尊からの使いが来ることはなかった。姫はやがて病に倒れ、姫の乳母は悲嘆にくれる姫を見るに偲びず、皇子を抱いて河畔に出た。「姫は今、尊を思い煩い、命を落とそうとしている。あなたは神様の化身だから、母上の身代わりになって、父君を呼び戻してください」と祈り、皇子を川の中に投じた。

すると皇子は、不思議にも白鳥となり深谷の鳥越の里から大和目指して飛び立ったと云う。 やがて訃報が尊の耳に届き、姫のために立派な墓を建てて弔ったところ、白鳥が飛び上がり、悲しく鳴きながら空中を旋回したと伝えられている。

このようなことから、この地では、古くから白鳥信仰があり、白い羽を拾うと「これは白鳥の羽である」と言って、神前に供える風習が残っていた。白鳥は神の化身として大事に扱われ、藩政期においても、この地での白鳥の捕獲は禁じられていた。

そのことが後に 戊辰戦争の際に白鳥事件につながった。 戊辰戦争の際に、この地に進駐してきた官軍の兵士達は、白鳥を捕殺し始めた。幾度も止めるように申し入れしたが一向に収まらなかった。これに対して柴田家家臣が、官軍の兵士に対し発砲し、このため関係者は処刑され、当時の柴田の領主は切腹に追い込まれた。