宮城県大河原堤字中…持明院

 

鮎貝氏は、藤原北家の流れで、置賜郡下長井荘の荘官となった。子孫は土着して武士化し、応永3年(1396)下長井の鮎貝に鮎貝城を築き、鮎貝氏を称した。伊達氏の置賜郡での勢力伸張の中で、伊達氏に組み込まれていったものと思われる。

鮎貝盛次は、伊達政宗幼少時の守役だった。しかし、天正15年(1587)、盛次と不和だった長子の忠旨は、ひそかに最上義光に通じて謀反したが、義光からの援軍はなく、盛次はただちに政宗にこれを告げて攻め、忠旨は逃亡した。伊達政宗は盛次の忠志を賞して咎めることはなく、この地の堤村に200石を与え加増した。

天正19年(1591)、政宗の岩出山移封に従い堤村に移り、晩年には日傾斎と称した。寛永2年(1625)10月、盛次は69歳で逝去し、堤村神上南の地に葬られ、平成2年(1990)この地に移された。

鮎貝氏はその後、伊達家御一家筆頭として奉行職を務め、延宝7年(1679)、本吉郡松岩村(気仙沼市松岩)に移るまでの88年間この地に居住した。

 

・持明院

天文2年(1533)創建。裏山の横穴にまつられている観音は「穴観音」と呼ばれ、耳だれに霊験があるといわれている。

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