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宮城県仙台市 宮城野区榴ヶ岡…榴岡天満宮境内

  額兵隊とは、仙台藩の洋式銃隊で奥羽越列藩同盟中最精鋭部隊。 仙台藩には国家老の但木土佐により洋式の調練を受けている部隊があった。しかしその兵制や訓練、武器はまだ十分とは言えず、その中から100人ほどを選抜して、葦名靱負(あしなゆきえ)を隊長とし、横浜で洋式兵学を学んでいた星恂太郎を兵学教師に迎え慶応4年(1868)に「楽兵隊」が結成された。 この時期、官軍下参謀世良修蔵が福島城下で殺害され、会津藩が白河城を占拠するなどによって、奥羽越はいわゆる東北戦争に突入していく。楽兵隊は、訓練、兵装ともに不十分なまま勇義軍やその他の諸隊に編入され、60人にも満たないような隊になってしまった。 星恂太郎は、藩士の中から家長と長男を除いた次男、三男で三十歳以下の敢死の者を募り、これに応じ800人程が集まり、当時の養賢堂の塾頭の大槻磐渓が「額兵隊」と名付け、司令部を養賢堂においた。額兵隊は砲兵百五十人、土工兵二百人、そのほか楽兵および士官隊から成り、恂太郎が自ら司令となってイギリス式調練を行った。額兵隊はイギリス軍を模し、そのラシャ製の赤い軍服で、戦闘時は服を裏返して黒い軍服にする、リバーシブルの軍服を着用した。 仙台藩の額兵隊に対する期待は大きく、いよいよ官軍が領境に迫ったとき出撃命令が出された。しかし、隊長の恂太郎は出撃を拒否した。これまでの官軍との戦いでは、兵器や銃弾の充実を図らずに出陣しては敗走を重ねていた。 いよいよ出撃準備が整った八月、藩は降伏帰順に傾き始めた。主戦派の恂太郎は、額兵隊を率い城下で大がかりな調練を行い、降伏帰順派を牽制した。しかし恂太郎は九月城中に召され、降伏帰順が決まったため、みだりに兵を動かすなと告げられる。しかし恂太郎は兵を集め、藩主伊達慶邦や重臣たちの制止を振り切り養賢堂を出陣した。 恂太郎は、250人の脱藩した額兵隊士とともに、塩竃に逗留していた榎本艦隊と合流し箱舘に渡った。箱舘では陸軍の第三列士満(レジマン:連隊のこと)の第二大隊長として箱舘戦争終結まで戦った。