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宮城県大崎市三本木桑折字藤松下…館山公園

2011/05/01取材

桑折城の築城時期は明らかではないが、大崎氏家臣である渋谷(八森)相模守が天文年間(1533~52)から天正年間(1573~1592)にかけて居城していた。

鳴瀬川南岸、標高約60m、比高約40mの丘陵を利用した城郭で、中新田、松山を結ぶ街道と奥州街道が交わる要衝に築かれていた。東西400m、南北100mほどの規模を持つ北郭を中枢としており、本丸はその東端となる約30m四方の平場であると考えられている。その平場の下段には北側、西側へと延びる平場があり、西側平場から堀切を挟んで現在展望台のある二の丸へと続く。また北郭の南東100mほどには南郭があり、15m四方ほどの平場が確認出来る。

天正14年(1586)、大崎義隆の寵童同士の争いに端を発し、大崎家中は二つに割れ、伊達は天正16年(1588)、反主流派となった岩手沢城主氏家弾正吉継救援を名目に、留守政景、泉田重光を大将とする軍勢を大崎領へと侵攻させた。対して大崎義隆は中新田城へ籠城、そして師山城、桑折城を防御拠点としてこれに備えた。

渋谷相模守が守る桑折城には、その甥にあたる黒川月舟斎晴氏が入った。黒川晴氏は、天文年間の景氏以降伊達陣営に加わっており、また留守政景の舅でもあった。

伊達の留守政景と泉田重光との間に、作戦上意見の相違があったらしく、結果として泉田重光は中新田城攻略に向かい、留守政景は師山城攻略に向った。大崎勢は伊達勢の大軍を相手に一歩も引かず善戦した。留守政景は師山城攻めを諦め中新田城攻めの泉田重光と合流すべく囲みを解いた。泉田勢は、三の丸、二の丸を落としたが、雪に降り込められ撤退を余儀なくされた。

これを機に、大崎勢は一気に反撃に出て、桑折城で静観していた黒川晴氏も大崎氏として旗幟を鮮明にし、伊達勢に襲い掛かった。伊達勢は、中新田勢と師山勢、桑折勢に挟撃されることとなり、各所の橋を落とされ、合流を阻まれた。泉田勢は新沼城に逃げ込み、留守勢は雪原に孤立した。留守勢は万事休したが、舅である黒川晴氏の温情により、辛くも戦線を離脱し松山千石城にもどった。新沼城に籠った泉田重光、長江月鑑斎らは大崎に捕らえられ、この戦いは大崎氏の大勝利という形で幕を閉じた。

大崎合戦では惨敗を喫した伊達氏であったが、大崎氏の内部崩壊は覆うべくもなく、その後結ばれた和議は大崎氏の伊達氏への服属に他ならなかった。その後大崎氏は天正18年(1591)の奥州仕置で滅亡、旧大崎領は木村吉清の支配の後伊達政宗に与えられた。政宗は居城を岩出山城に定め、桑折城には文禄2年(1593)柴田城より柴田宗義が移封され一時期居城したが、間もなく廃城になったものと思われる。