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宮城県大崎市古川十日町

 

民本主義を主張し、大正デモクラシーの理論的支柱としてその名を残す吉野作造は、明治11年(1878)、この地で綿屋を営む家の長男として生まれ、明治25年(1892)、宮城尋常中学校(現・仙台第一高等学校)に入学した。

入学後、めきめき頭角をあらわし、二年進級の時には早くも首席だったと云う。あるとき作文の時間に先生から「寒菊」という題を出され、同級生一同いずれもこの題に悩んでいたが、作造はしばし黙考の後、すらすらとペンを走らせ、南北朝時代、天下すでに足利の世になったとき、独り九州の一角にあり南朝のために尽くした菊地氏一門の孤忠を寒菊に例えて非常なる名文をつくり先生を驚嘆せしめた。

当時、「剛健旅行」が彼らの間で流行しており、作造ら三名は四年生の時に秋田徒歩旅行を敢行、一行は、作造のこの古川の生家から徒歩で盛岡まで直行し、そこから黒沢尻に至り、そこから奥羽山脈を突破して秋田県の横手に入り、横手から目的地の秋田に到着した。一行は意気すこぶる軒昂で、帰路を山形にとり、山形から髙湯温泉を経て蔵王を突破、遠刈田にいたり大河原を通過して伊具の友人の家に無事到着した。

当時の校長は、養賢堂学頭の大槻磐渓の子で大言海を著した大槻文彦校長だった。作造はその薫陶の下、たくましい向学心と、粘り強い精神、剛健の気質は、養賢堂に連なる者としてのプライドに裏打ちされて、生徒達の共通な風格になりつつあった。この秋田徒歩旅行は、これをよく表しているものといえる。

その後作造は、旧制第二高等学校、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、明治42年(1909)に東大法科大学助教授就任、大正3年(1914)同政治史講座教授、翌大正4年に法学博士となった。大正5年(1916)、代表作となった評論「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を発表、大正デモクラシーの代表的な論客となり、普通選挙の提唱、推進を主張した。

また、日本の帝国主義的政策に対して批判的であったため、大杉栄とともに憲兵に狙われ、関東大震災直後、憲兵が吉野宅を急襲し暗殺されそうにもなった。しかし作造は、大日本帝国憲法下という時代的制約のなか、ただ学究にとどまらず、自由・平等の民主主義提唱のために堂々の論陣をはり健闘し、大正デモクラシーの運動の中で活躍し、昭和8年(1933)、55歳で没した。

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