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宮城県大崎市松山千石

震災前取材

茂庭氏は、源平合戦に平家方の武将として白髪を染めて出陣したことで有名な斎藤別当実盛の後裔と伝えられ、古くは山城国に住していたと云う。 この稲荷社は、茂庭氏初代行光が、京都の伏見稲荷を山城国八瀬に勧請したのが始まりとされ、以後代々茂庭氏の守護神とし崇敬されてきた。

その後茂庭氏は、奥州の伊達郡に移り、伊達家初代の朝宗に仕えた。 建久3年(1192)、茂庭氏三代実良のとき、伊達郡の所領に大蛇が出没し里人らが大層難儀していた。実良は大蛇を退治すべく、氏神の稲荷明神に祈願し、白羽箭を賜り無事大蛇を退治したと伝えられる。

茂庭家十五代の良元は、伊達氏の重臣として伊達政宗に仕え、江戸初期に松山の邑主となり、松山千石城内に稲荷社を勧請した。その後、茂庭氏は居館をこの地に移し、稲荷社もそのときこの地に遷座された。