宮城県栗原市金成町

 

平泉藤原氏隆盛の頃、金成の畑村に炭焼きをしている藤太という朴直な男が住んでいた。この炭焼藤太のもとへ、ある日京都の三条右大臣道高の娘の於幸弥姫(おこや、あるいは某宮家の姫で古耶姫ともいう)と名のる娘が遠く金成にやって来た。清水の観音様のお告げで、夫たるべき人が奥州金成にいると聞き、炭焼藤太の嫁になるため、はるばる陸奥に下って来たのだという。

二人は夫婦になり仲むつまじく暮らしていた。ある時於幸弥は、親からもらってきた砂金を紙につつんで藤太に渡し、姉歯の市で米や味噌を買って来るようにたのんだ。藤太は途中の沼に雁や鴨が群れているのを見つけ、持っている砂金の包みを投げつけ、これを捕まえ喜んで帰宅した。

これを聞いた於幸弥はあきれて、砂金の大切さを告げたが、藤太は驚くこともなく「そんなものなら炭を焼くカマのまわりにいくらでもある」という。砂金の価値を知った藤太はその砂金を持って京へ上り、金売りをして長者になったという。

いつしか藤太の村は金生と呼ばれるようになり、そして藤太が炭を焼いた山は金山沢、藤太が黄金の鶏を山の上に埋めた山すそは、鶏坂と呼ばれるようになった。そこからはときどき暁の闇を破って鶏の鳴き声が聞こえてきたという。

伝説では、この夫婦は、橘次(きちじ)、橘内(きちない)、橘六(きちろく)の三人の子供をもうけた。息子達は成長し、藤原秀衡に仕え、金田八幡宮の山裾に、東館、南館、西館と屋敷を構えた。そして京と奥州を往来し金を商い豪商となった。特に長兄の橘次は義経の案内役として有名で、近在の寺社へ仏像を奉納し勧請するなどし、金売橘次信高としての事跡は有名である。

藤太夫婦は、平安末期の仁安年中(1166~69)に亡くなった。

墓石は、常福寺の裏山にあったが、正徳5年(1715)、時の大肝入の佐々木氏が、郷土の偉人藤太を称えて碑文を刻み、現在の地に移した。

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