宮城県栗原市金成梨崎字南沢

姉歯の松は、迫川と三迫川が合流する付近にあり、今も何代か植え継がれた松が見られる。この松は、岩沼の武隈の松、山形の阿古耶の松、多賀城の末の松山とともに奥州の名松にあげられ、松の傍らには文化2年(1805)に建立された歌碑と、明治30年(1897)建立の「姉歯松碑」がある。

歌枕の「姉歯の松」は、伊勢物語の中で、みちのくから京に戻る途中の在原業平が、土地の女性を詠んだとする次の歌で広く知られる。

栗原の あねはの松の 人ならば 都のつとに いざといわましを  業平

歌碑には、この業平の歌のほかに次の3つの歌が万葉仮名で刻まれている。

かくばかり としつもりぬる われよりも あねはのまつは おひぬらむかし 祐挙

ふるさとの ひとにかたらむ くりはらや あねはのまつの うぐひすのこゑ 長明

くりはらや あねはのまつを さそひても みやこはいつと しらぬたびかな 秀能

用明天皇のころ(586~587)、全国から宮中の女官の采女(うねめ)を募ったとき、陸奥国からは、気仙郡高田の武比長者の娘朝日姫が選ばれた。朝日姫は、都に上がるときに慣れない船旅で体をこわし、陸路で都を目指すことになったが、姉歯の里にたどりついたころには重態となり、ついにこの地で命を落とした。里人は朝日姫を不憫に思い、懇ろに葬った。

その後、妹の夕日姫が代わりに都に上がることになり、夕日姫は、旅の途中姉の墓に立ち寄り、供養のために岩蔵寺を建立し、墓に松を植えた。里人はこれを姉歯の松と呼び後世に伝えたという。昔は姉墓の松と言ったのが姉歯の松に転化したとも伝えられる。
松尾芭蕉は「奥の細道」の中で、「十二日、平和泉と心ざし、あねはの松・緒だえの橋など聞伝て、人跡稀に雉兎蒭蕘の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがえて、石の巻といふ湊に出。」と書いており、姉歯の松も予定に入っていたようだが、結局は断念し、石巻から一関街道を通り平泉に抜け、この地を訪れることはなかった。

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