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宮城県七ヶ宿町関

七ヶ宿町には、羽州街道と奥州街道を結ぶ「山中通小坂越」(山中七ヶ宿街道)沿いの仙台領内に、かつて上戸沢、下戸沢、渡瀬、関、滑津、峠田、湯原の七つの宿場が置かれていた。当時は、陸奥、出羽13大名の参勤交代や米輸送の要路として、また、出羽三山詣での庶民の往来で賑わった。

この地の本陣は、七ヶ宿街道の中では最も本格的な本陣で、幕末時には、総建坪226坪余りあり、一夜に200人を泊めたと云う。現在は、当時の庭園の一部が残っているだけである。

戊辰戦争の際に、新政府は、仙台藩、米沢藩をはじめとする東北地方の諸藩に会津藩追討を命じ、鎮撫使と新政府軍部隊を仙台に派遣した。鎮撫使は、仙台藩に対し強硬に会津出兵を迫り、仙台藩は、3月27日に会津藩境に出兵した。

しかしこの間、仙台藩、米沢藩等は、会津藩と接触をもち、この地で謝罪嘆願の内容について検討を重ねた。慶応4年4月29日、仙台藩の但木土佐、米沢藩の木滑要人、会津藩の梶原平馬らがこの地で会談し、会津藩が謀主の首級を出し降伏することに決したが、会津藩は数日後にはそれを翻した内容の嘆願書を持参した。これにより仙台藩は会津藩へのこれ以上の説得を諦めた。

その後、仙台藩、米沢藩は、奥羽諸藩に対して列藩会議召集の回状を回し、閏4月11日、奥羽14藩は仙台藩領の白石城において列藩会議を開き、会津藩、庄内藩赦免の嘆願書などを奥羽鎮撫総督に提出したがこれは却下された。また、奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵の密書が、仙台藩士瀬上主膳や姉歯武之進らの手に渡り、その中の「奥羽皆敵」の文面を見て激昂した彼らは、現在の福島市の金沢屋において世良修蔵を襲撃し処刑した。 これにより、奥羽の地は一気に東北戦争へとなだれ込んでいく。