宮城県白石市斎川字坊ノ入

 

甲冑堂は田村神社の境内にある。堂内には平泉から源義経に従い、義経の身代わりになって敵に討たれた、佐藤継信、忠信兄弟の妻の甲冑木像がまつられている。佐藤継信の妻は、関東川越太郎の娘で名は楓、忠信の妻は相馬小高城主行方五郎の娘で初音と言う。

継信、忠信の兄弟二人とも他国の土となり、形見だけが帰った。兄弟の母はこれを歎き悲しみ、無事に帰って来た人を見るたびに、せめてどちらか一方だけでも帰って来たならばと泣いていた。兄弟の妻女の楓と初音は、その心を思い、夫の甲冑を着し、長刀を脇ばさみ、勇ましい装いで「唯今兄弟凱陣せしと」老母に見せその心をなぐさめたという。この二人の婦人の孝心をあはれに思ひ、その姿を木像に刻み残したという。

甲冑堂は、田村神社の社伝によると文亀年間(1501~1504)に佐藤左衛門亮信治(継信の末裔)によって建立されたと伝えられている。 松尾芭蕉もこの地に立ち寄り「奥の細道」の中で、「二人の嫁のしるし」と書き、称えている。

おくのほそ道「佐藤庄司が旧跡」章段

「月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半斗に有。飯塚の里鯖野と聞て尋ね尋ね行に、丸山と云に尋あたる。是、庄司が旧館也。梺に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも、二人の嫁がしるし、先哀也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと、袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞へば、爰に義経の太刀、弁慶が笈をとゞめて什物とす」

現在の甲冑堂は昭和14年(1939)に再建されたもので、このことが国定教科書高等小学校読本でとりあげられたのをきっかけにして、甲冑堂再建の気運が高まり、寄付金などにより実現できたという。

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