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宮城県白石市福岡蔵本字陣場

二基の墓碑のうち、右側が世良修三の墓で、左側は三人の従者の墓である。 慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見の戦いの後、朝廷から会津を逆賊として討伐の命令が仙台藩に下った。九条道孝が奥羽鎮撫総督となり、下参謀として薩摩の大山格之助、長州の世良修三が任命され、彼等は薩長兵を率いて仙台に入った。

仙台に入った薩長兵は、その言動が横暴で、権力をかさに着た言動には仙台藩士、領民の多くは反感を持っていた。特に世良修三は、傲慢且つ挑発的だったと伝えられる。仙台藩は世良等からの矢継ぎ早の出兵督促に、渋々会津進撃を開始し、白石に本陣を構えたが、藩論は割れており、会津を討伐するという戦意は甚だ乏しかった。

白石には米沢藩から900名が上杉斉憲に率いられて白石城に入った。伊達慶邦と上杉斉憲は、会津藩と庄内藩に降伏を勧め、その内諾を得て奥州各藩に呼びかけ、会津藩と庄内藩を救済する嘆願書を総督府に提出した。 世良修三は怒りこれを退け、仙台藩士、米沢藩士を「仙米賊」として、「奥州皆敵と見て逆撃の大策に致候に付……此の嘆願書通り許され候時は奥羽は1~2年の内に朝廷の為にならぬよう相成るべく……」との密書を、同僚の 大山格之助に送った。

この密書は仙台藩の手に落ち、薩長軍は会津のみならず、あくまで奥羽全域の武力制圧が目的である事が判明し、和平を模索し藩論が定まらなかった仙台藩は、これで一気に主戦論に傾いた。

明治元年(1868)4月19日、福島の妓楼金沢屋に宿泊していた世良たち一行は、憤激した仙台藩士の姉歯武之進や福島藩士らの襲撃を受けて捕縛され、 翌日、福島市内を流れる須川の河原で斬首された。

数日後、奥羽25藩が白石に結集し、白石同盟なる列藩同盟が結ばれ、その後越後6藩が加わり、奥羽越31藩同盟が成立し、白石が奥羽越列藩同盟の大本営となった。

世良修三の首は、当初白石の月心院に葬られたが、明治3年(1871)この地に改葬された。明治8年(1876)に宮城県が墓碑を建立し、翌年、明治天皇の東北巡幸の際に、世良修三と親交のあった木戸孝允は歌一種と石灯篭を献じた。 また、左側の石灯篭は、磐前県令が献じたものであるが、白石は明治5年(1873)1月に宮城県に編入されたが、明治9年(1877)5月には磐前県に属した。しかし同年8月には磐前県は廃止され、再び宮城県に復帰した。この石灯篭は、僅か3ヶ月の磐前県所属の歴史を証明するものでもある。