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宮城県白石市益岡町

別名:益岡城

後三年の役後、刈田経元が城を築いた。そののち、宮城県南部は伊達氏の勢力下に入り、白石、屋代氏等が拠った。

天正18年(1590)小田原征伐後は伊達は豊臣秀吉に臣従し、翌19年、白石周辺は会津城主蒲生氏郷の領地となった。氏郷は、益岡に新たな縄張りを行い、三層の櫓を構える本丸や二の丸、西の丸等を築き、重臣の蒲生郷成が城代を務めた。

慶長3年(1598)、蒲生氏郷の死後、下野国宇都宮へ移封されると、会津には越後より上杉景勝が入部し、上杉重臣の甘粕景継が城代として白石に入った。

慶長5年(1600)、関が原の戦いにおいて、家康側についた伊達政宗は白石城を一望できる陣場山に本陣を置き白石城を攻めた。このとき、城代の甘粕景継は軍評定のため会津若松に出向いており、城兵の士気は低く、石川昭光を介して降伏を申し入れ、白石城は落城した。

後、刈田郡を加増された伊達政宗は、石川昭光を城番とし、城を修築し、慶長7年(1602)から政宗の功臣、片倉景綱が入城した。以来片倉氏が伊達領内で仙台城のほかただ一箇所、幕府より城として認められた白石城を守った。

幕末、戊辰戦争の際、奥州や出羽の諸藩が奥羽越列藩同盟を結んだ。これは、奥羽25藩と北越6藩が同盟を結び、藩という封建的単位を超えて1つの東北という政治的単位を目指したものだった。白石城は、その同盟締結の会議(白石会議)の舞台となった。