宮城県白石市字本町…当信寺

 

元和元年(1615)、大阪夏の陣のとき、大阪方の名将真田幸村は、大阪城の落城と自分の最後を覚悟し、その知勇兼備を見込んだ敵将である片倉重長に、於梅と穴山小助の娘の養育を託した。

一説には、道明寺の戦いで奮戦する重長を大坂の戦場で見た真田幸村が、この将ならばと、片倉の陣に矢文を送り於梅との婚姻の儀を申し入れたとも伝えられる。

大坂落城の際、於梅は妹や弟を引きつれ、白綾の鉢巻、白柄の長刀を抱えて片倉重長の陣へ入った。そのとき、誰の娘であるかは名乗らなかったが、その様子は凛とし、太閤様の息女ではないかなどと、様々に取りざたされた。後に、その家来の者が尋ね来て、真田左衛門佐幸村の息女とわかった。真田の家臣たちは、「寄手諸将のなかに片倉かねての英明、殊にこのたび目を驚かす。武功の事なれば末繁盛ならんことを予め斗り、容色万人に勝れたる息女なれば、捨てたまうべきにあらずと幸村申し置き、重綱公の陣の前へ物し出したるならん」と皆言ったと云う。

片倉重長は幸村の遺児の於梅、於菖蒲、おかね、大八たちを、白石城二の丸でひそかに養育し、於梅は後に重長の後室になった。後に城南森合の地に一寺月心院を建立し、亡父幸村の霊を弔らい天和元年(1681)78才で逝去した。

大八は片倉家の家臣として召し抱えられ、真田守信を称した。寛永元年(1624)頃、伊達家は「大八君八歳の時京都にて印地打ち観覧中石に当たり他界」という虚報を流し守信の存在を隠した。寛永17年(1640)に幕府から伊達家に守信の調査が命じられた時には、守信は「真田信尹の次男で政信の子」だと偽証した。その際、片倉守信と改名し300石を与えられて仙台藩士となった。寛文10年(1670)死去。享年59。その後、「既に将軍家を憚るに及ばざる」と内命を受け、公に真田姓を名乗る事が許された。その子孫は仙台真田家として今なお続く。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です