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宮城県白石市福岡蔵本字平屋敷

喜多は、伊達氏の猛将として知られていた鬼庭左月良直と本澤直子の間に生まれた。しかしその後、長年子供に恵まれなかったため、鬼庭家の断絶を恐れた良直は直子を離婚し、直子は喜多を連れて鬼庭家を出て、米沢八幡の神職の片倉景長のもとに再嫁した。

直子は景長との間に景綱をもうけ、鬼庭良直には後の茂庭綱元が生まれた。喜多と片倉景綱は異父姉弟にあたり、喜多と茂庭綱元は異母姉弟にあたる。

その後喜多は、伊達輝宗により政宗の「乳母」を任じられた。喜多は独身の女性であったことから、実際は養育係であったと考えられる。喜多は政宗の名将としての素地、人格形成に強い影響を与え、また後に政宗から最も信頼を得た武将としての、異父弟小十郎景綱の母代わりとして、その育成にも大きく貢献したと伝えられる。

片倉景綱の白地に黒鐘の大馬印も「その名を天下に鳴り響かせよ」という姉喜多の弟への励ましの作であったと云う。

政宗の成長後は、正室の愛姫付きとなったらしく、後に豊臣秀吉の人質となった愛姫と共に京へ上洛した。ところが、その直後に政宗の勘気を得て蟄居となった。以後は、異父弟景綱の在所である白石に移り、出家して庵を結び、そこで生涯を終えた。慶長15年(1610)7月、享年72歳だった。

少納言の称号は、朝廷から任じられたという記録はないが、理由は明らかではないが早くから少納言と呼ばれていた。また後の寛文事件を扱った歌舞伎『伽羅先代萩』の乳母政岡のモデルの一人は喜多と云われている。

後に、愛姫の願いにより、愛姫の従兄弟で、秀吉の奥州仕置により所領を没収され伊具郡に潜んでいた田村宗顕の子息の田村定広を白石に移し、喜多の名跡を継がせた。